3. 天の章 - 音と色が示す世界観

2023年8月21日 3節までの暫定公開 Ver.0.0

梗概

本章は、これまでの検討に「音」と「色」の観点を導入することによって、映像作品「響け!ユーフォニアム」とは結局いかなる物語であるかという問いに筆者なりの答を与える---映像作品「響け!ユーフォニアム」は、青い天に導かれ、黄色い地に支えられ、宇治の若人が、緑の葉を伸ばす木々のごとくに大空を目指し伸びゆく物語である。

ふりかえると、筆者は、映像作品「響け!ユーフォニアム」には何かの世界観が暗黙に置かれていると感得し、1章と2章で妄想を繰り広げた。結果、宇治は神のおわす山地から衆生の住まう平地へと龍たる宇治川が降臨する場所であり、超越的な存在が到来する場所である;これに雅楽の思想---天・地・人・空・龍---を重ねた世界観が、映像作品「響け!ユーフォニアム」と符合すると考えるに至った。もし映像作品の表現の中に、この世界観と一致する客観的・具体的な示唆が存在すれば、暗黙の世界観の確実な証拠となるだろう。それは「音」と「色」に存在していると筆者は気づいた。(1節)

「音」の示唆は楽曲の題名にある。題名が含む「天地人・鳥風月」の字が、世界観(すなわち舞台)と、その舞台で活躍する役者を暗示していると考えた。

[2023年8月21日 暫定公開Ver.0.0 ここの「天地人」まで。以下は仮の構想]

「色」の示唆は映像の題字にある。題字を彩る「青と黄」の色が、背景や登場人物やアイテムにいたる物語世界の色彩に意図的に用いられ、対照的な概念を象徴していると感得した。具体的には、青色は怠惰を許さない、険しい向上・飛翔への導きであり、黄色は過ちを許す、優しい支え・苦悩からの救いである。付随して両者の中庸に、青と黄の混色である緑色が用いられていると感得し、これは人の象徴と解釈する。

1,2章の「山から地への龍の降臨」「天・地・人・空・龍」の世界観。映像作品の音・楽曲が示す「天地人・鳥風月」、色・映像が示す「青と黄、付随して緑」。これらを踏まえ、筆者は、次の作品解釈に到達した---「青は天、黄は地の象徴である。緑は人の象徴である。青い天空は若人を飛翔へと導く。黄色い大地は若人を支える。若人は次々と龍となって大空に羽ばたき、次の世代を導き支える。緑は、地に根をはり空に葉を伸ばす木々、ひいては地に支えられ空を目指し伸び行く若人の象徴である。」

本章の前半でこの解釈の論証を試みる。後半で、映像作品との照合により解釈の妥当性を検討する。

現実に映像作品の制作陣がこのような世界観を想定した可能性は、状況からはゼロとは言い切れないだろう。小説「響け!ユーフォニアム」は宇治を舞台とする吹奏楽部の物語である。地元の物語であることからスタジオ30周年記念作品として選ばれた。その制作にあたって、宇治の伝承と古代の合奏が参照された可能性は否定しきれない。もし、宇治の地形と古くからの信仰、そして吹奏楽にちなみ古代の合奏である雅楽の世界観が参照されたならば、山地(天)と平地(地)を水(龍)が結ぶ地・宇治にあって、天に導かれ、地に支えられ、若人が成長し龍となって大空に羽ばたくという世界観が暗黙に想定されることになるだろう。それらは、楽曲名や作品題字の色彩、挿入カットにより静かに描出され、映像作品の表現の力を示しているのである。

註: 本論では映像作品での登場人物の瞳・頭髪の色の描写について言及するが、これらはすべて、作品の色彩設計に関する検討である。筆者は、実在の人間の頭髪や瞳の色など身体的特徴にもとづく一切の区別・差別に断固反対する者である。

3.1 プロローグ

筆者は、映像作品「響け!ユーフォニアム」の鑑賞を重ねる中で、この作品の根底には何かの世界観が暗黙に置かれていると感得した。1章と2章で宇治の信仰や伝承、雅楽の思想をもとに妄想を繰り広げて世界観を構築し、それが映像作品と符合すると考えるに至った。だが「なぜその世界観をもってきてこの映像作品の解釈に使うのがふさわしいと言えるのか」の確実な根拠が欠けている。もし、映像作品自体の表現の中に、この世界観と一致する客観的・具体的な示唆が存在すれば、この世界観は映像作品が求めるものだという確実な根拠となる。その示唆は「音」と「色」に確かに存在していると筆者は気づいた。このことについて、以下、少し詳細に述べてみよう。

1章 1章では宇治の信仰・伝承について妄想した結果「宇治信仰仮説」なる妄説に到達した。宇治信仰仮説は次の2つからなる。

仮説1. 龍が見守る地、宇治 宇治は神のおわす山地から衆生の住まう平地へと龍たる宇治川が降臨する、龍が見守る地である。実際、地形をみてみると山地と平地の境界線が宇治を横切っており、宇治神社はその境界線と宇治川の交点に位置している。また、社寺をみたとき、善女龍王を祀る笠取の西笠取清瀧宮が、宇治の鬼門方位を守る位置関係にある。さらに、宇治川には「白龍さん」の信仰があり、上流の瀬田・笠取にも龍の伝承がある。

仮説2. 超越的存在の到来地、宇治 宇治は超越的な存在たる太陽が遠方より到来し最盛を誇る聖なる地である。実際、日の出を宇治神社一の鳥居の背後に拝む地点を縣神社参道上に選ぶと、冬至に縣神社一の鳥居を出発し夏至に縣神社本殿に到着する(自然暦)。太陽が、冬至に山地の遠方を出発し夏至に至近の仏徳山に到着することが表現されている。平等院も仏徳山・宇治神社・縣神社を結ぶ夏至の日の出の線上に位置している。

2章 つづく2章では、宇治信仰仮説に、古代の合奏である雅楽の思想---天・地・人・空・龍---を重ね、これらが形成する世界観が映像作品「響け!ユーフォニアム」の根底に暗黙に想定されている可能性を次のように妄想した。

仮説1と場面の呼応 「龍神の山地と衆生の平地、龍たる宇治川」という宇治信仰仮説1をもって映像作品「響け!ユーフォニアム」を検討すると、物語のさまざまな出来事が山地側・平地側で描き分けられているという妄念が湧く。例えば、山地側は仏徳山展望台のように神がかった場面、平地側は久美子ベンチのように人間的なやり取りが印象的である。境界では、宇治神社一の鳥居のように両方の価値観の接触が表現される。

仮説2と物語構造の呼応 響け!ユーフォニアムは、俯瞰的にみれば、滝が登場して、部員達を覚醒させ鍛錬の道へいざない、彼らを広い世界への巣立ちへと導く物語である。すなわち「超越的な善きものが到来し人々を覚醒させ成長に導く」物語なのであって、筆者はこれを宇治信仰仮説2「超越的存在の到来」の反映だと妄想する。

暗黙の世界観 筆者は、雅楽の世界観が映像作品「響け!ユーフォニアム」の物語の根底に置かれていると妄想する。やや詳しく言うと、古代の合奏である雅楽では、演奏は天と地のはざまの空を龍が舞う様を表すとされる。この「天・地・人・空・龍」の世界観は、「天」を宇治の山地に、「地」を人の住む宇治の平地に、「龍」を改めて宇治川に対応づけることで宇治信仰仮説と重なってくるのである。 この妄想の目で見るとき、先生3人は先を行く龍であり、高坂・黄前・塚本は「天・地・人」に暗黙に性格付けされているといったように感じられてくる。

1・2章の妄想の根拠の欠落 1章と2章で繰り広げた妄想の帰結である宇治信仰仮説と雅楽の世界観は、映像作品の舞台や登場人物との間に関連を感じさせるものだが、客観的な根拠が欠落している。
関連するという印象は強い。「宇治」の「吹奏楽」の物語である「響け!ユーフォニアム」の暗黙の設定として、「宇治の信仰や伝承」と「古代の合奏である雅楽の世界観」が参照されていると考えるのは自然なことだろう。そして、作品を検討してみると整合を思わせる事例がつぎつぎと見つかり、妄想はますます強固なものになっていくのだ。
だがこれは印象であって、主観的な状況証拠にすぎない。地元の伝承や雅楽の話をもってくるとうまく物語が解釈できそうだと思いついたので選んだ、だからうまく解釈できる、といっているにすぎないのだ。

確実な根拠の存在 もし、映像作品「響け!ユーフォニアム」の表現のどこかに、筆者が妄想をへて構築した世界観と一致する客観的・具体的な示唆が存在すれば、筆者の世界観と同様のものを映像作品もまた自ら示している、すなわち筆者の世界観は妥当なものであるという確実な根拠となる。検討と妄想を重ねた結果、筆者は、その示唆は「音」と「色」に確かに存在していると確信した。しかも堂々と「題名」の部分にだ。次節以降で、これについてみていこう。

3.2 楽曲の名

「響け!ユーフォニアム」においては映像化の際にかなりの数の楽曲が原作から入れ替えられている(2章3節 「原作小説と映像作品」の項)。新たに加えられたものもある。筆者は、そうしてそろったコンクール演奏楽曲の名前に含まれる文字が「天地人・花鳥風月」を成すことに注目する。

楽曲の一覧 原作小説と映像作品における、コンクールで演奏された楽曲のタイトルを表3.1に示す。中学校の名称は、原作小説では北中/南中、映像作品では大吉山北中学校/市立南中学校である。

表3.1 原作小説と映像作品におけるコンクール演奏楽曲のタイトル(一部)
年度学校項目原作小説映像作品
傘木・鎧塚ら 中3
黄前ら 中2
南中
(市立南中)
コンクール自由曲 バレエ音楽 ダフニスとクロエ 第二組曲
(「熱い夏」p.12)
だったんの踊り
(TV2期1話(1時間)C)
黄前ら 中3 北中
(大吉山北中)
コンクール自由曲 (言及なし) 国と獄(地獄のオルフェ)
(TV1期1話B滝先生)
黄前ら 高1 北宇治高校コンクール課題曲 三日の舞
(「ようこそ」p.146)
プロヴァンスの
(TV1期6話A)
黄前ら 高1 北宇治高校コンクール自由曲 イーストコーストの
(「ようこそ」p.146)
三日の舞
(TV1期6話A)
黄前ら 高2 北宇治高校コンクール課題曲 ラリマー
(「第二楽章前編」p.224)
マーチ・スカイブルー・ドリーム
(「誓いのフィナーレ」40分45秒付近)
黄前ら 高2 北宇治高校コンクール自由曲 リズと青い
(「第二楽章前編」p.224)
リズと青い
(「リズと青い鳥」11分50秒付近)
黄前ら 高2 北宇治高校アンサンブルコンテスト曲 小さな祝典音楽
(「ホントの話」p.246)
フラワー・クラウン
(「アンサンブルコンテスト」47分38秒付近)

表3.1 からわかることがある。映像作品では風流な漢字が一気に増えていることだ。人、天、地、風、月、鳥である。原作小説では月、風、鳥の3つであったから、映像化の際に人、天、地が増えたことになる。 これらを並べ替えると「天・地・人」、「鳥・風・月」となる。もし高2のコンクール課題曲のスカイから「空」を拾いあげれば「天・空・地・人」となる。また、高2のアンサンブルコンテスト曲のフラワーから「花」を拾い上げれば「花・鳥・風・月」がそろうことになる。

これだけの符合は筆者には偶然とは思えない。これらは意図をもって計画され、楽曲が選択され、視聴者にさりげなく示されていたと考えるべきではないだろうか。この妄想の妥当性について、時系列も含めて検討してみよう。

3.3. 天・地・人

本節では "「天・地・人」が作品の世界観であり、「天国と地獄」と「だったん人の踊り」という楽曲名の形で視聴者にさりげなくしかし明確に提示されている" という筆者の見解を示す。まず、この2楽曲が作品の中でどのように使われているかを確認し、その選曲の過程について検討する。そこに意図が浮かび上がるのを妄想し、その妄想の妥当性を検証する。

「天国と地獄」 黄前らの中学3年時の北中のコンクールの自由曲は、意外なことに原作小説では全編にわたって言及がなく、映像化(TVシリーズ1期)の際に初めて「天国と地獄」と設定された。近年は「地獄のオルフェ」と呼ばれることが多い楽曲であるが、本論では旧称「天国と地獄」を採る。この楽曲の初出と再現は次のとおりである。

初出
TVシリーズでは1期1話後半、滝の初登場という大変重要な場面で描かれるのが初出である。宇治神社の鳥居を背にして現れた滝は、第一声で「上から、大吉、」とおみくじのうんちくを語る。つづいて、大吉山北中のコンクールの演奏の録音をきいていることが明かされる。
劇場版「ようこそ」では実に、大吉山北中がコンクールで楽曲「天国と地獄」を演奏しているシーンから物語が幕を開ける。観る者は、自分が金管楽器のベルの中から演奏の舞台に出てくるという不思議な映像から一気に物語に引き込まれることになる。
再現
楽曲「天国と地獄」が再び出現する箇所は、TVシリーズでは1期12話後半、劇場版「ようこそ」では1時間18分45秒付近である---宇治橋を疾走した黄前が「悔しくて死にそう」と絞りだすように口にした瞬間、高坂の中学三年生の涙の心境についに魂がシンクロナイズし覚醒を果たす劇的な場面である。楽曲は当然、大吉山北中3年のコンクールの回想として黄前の脳裏をよぎっている。
これらのすべての場面が映像作品オリジナルである。

「だったん人の踊り」 傘木・鎧塚らの中学3年時の南中のコンクールの自由曲は、原作小説「熱い夏」では「ダフニスとクロエ」であったが、映像化(TVシリーズ2期)の際に「だったん人の踊り」に変更されている。

初出
TVシリーズ2期1話(1時間スペシャル)中盤で、傘木・鎧塚らの南中学3年時のコンクールのエピソードが回想の形で描かれる。自由曲「だったん人の踊り」がバックグラウンドで流れるなか、コンクールからの帰りのバスで敗北の悲しみに暮れる部員達の姿に続き、演奏場面が提示される。この場面は、原作小説「熱い夏」p.12の描写と、楽曲以外はおおむね対応している。
なお、劇場版においては、「だったん人の踊り」の描写は一度もない。
再現
TVシリーズ2期1話後半で、傘木が一人「だったん人の踊り」を演奏しているが、その音を遠くできいた鎧塚は「気持ち悪い」と苦しむ。また2期2話後半で、合宿中、黄前が音楽プレーヤで「だったん人の踊り」をきいていると、鎧塚が「その曲やめて。きらい」と制する。
なお2期4話後半で、鎧塚はのびやかにオーボエを奏でるのだが、それは「三日月の舞」であり「だったん人の踊り」ではない。

選曲過程の検討 まとめると、原作小説においては、黄前らの楽曲への言及はなく、傘木・鎧塚らの楽曲は「ダフニスとクロエ」であった。一方映像作品ではそれぞれ「天国と地獄」「だったん人の踊り」が選ばれたことになる。筆者は、これは不思議なことで、意図があったと考える。以下それについて述べよう。

インタビュー記事から楽曲の選定意図の言及を収集したものを表3.2に示す。

表3.2 インタビュー記事における、楽曲選定への言及
出典発言者楽曲提案者
「響け!ユーフォニアム オフィシャルファンブック」宝島社、2015年9月23日発売
STAFF INTERVIEW 松田彬人(音楽) × 斎藤滋(音楽プロデューサー)
p.98-
斎藤P ライディーン 山田尚子*
愛を見つけた場所 石原監督
The Fairest of the Fair March 大和田雅洋
シェヘラザード 大和田雅洋
CDジャーナル2017年1月号
特別企画 響け!ユーフォニアム2対談 大和田雅洋 x 松田彬人
p.13-
大和田雅洋 ライディーン 大和田雅洋・斎藤P*
シェエラザード 大和田雅洋
チャイコフスキー交響曲4番 大和田雅洋
パガニーニの主題による狂詩曲 大和田雅洋
「響け!ユーフォニアム2 コンプリートブック」宝島社、2017年3月14日発売
[シリーズ演出] 山田尚子インタビュー
p.93
山田尚子 だったん人の踊り 山田尚子

* おそらく山田氏が楽曲を提案し、大和田・斎藤両氏はマーチング用アレンジ譜を選定。

「天国と地獄」が選ばれた理由に関しては、大変不思議なことに、公式の言及が一切存在しない(2023年8月現在、筆者調べ)。表3.2に示したように、他の楽曲については言及されているのに、映像作品オリジナルの重要な場面で使われるなどとても大切な位置を占めているこの楽曲だけ、言及がないのだ。それほどの重要曲であるから、選択にあたっては少なからぬ検討があったはずだ。たとえば音楽的視点で「しばしば中学生が演奏し楽しい楽曲である」とか、物語の視点で「高坂がいるので金管楽器が活躍する曲ということで」などの何らかの言及があってしかるべきと感じるのだ。

では「だったん人の踊り」はどうかというと、これも不思議なのだ。シリーズ演出・山田尚子氏の言及はどのようなものだったかみてみよう:

---劇中曲の「ダッタン人の踊り」は山田さんの提案だったとお聞きしましたが、どのような意図があったのでしょうか?
ちょうど、シナリオ会議の前夜にオーボエのことを考えていたんです。その時ふと知人が「ダッタン人の踊り」のお話をしていたことを思い出しまして、「あの曲のオーボエってどんな感じだったかしら?」と思いたって改めて曲を聞いてみたら、なんとメロディーがフルートからオーボエにつながる譜割りになっていて。希美がフルートでみぞれがオーボエだから……「完璧じゃないか!」と(笑)。二人の物語にぴったりですし、これは運命では! と思いました。きっと誰もがどこかで一度は耳にしたことがある曲ですし、もしそうでなくてもこの素敵な楽曲に出会うきっかけに『響け!ユーフォニアム』がなれたらとても素敵だなと想像しました。

(響け!ユーフォニアム2 コンプリートブック p.93より引用)
確かに「だったん人の踊り」はフルートとオーボエの活躍する好適な選曲だが、そもそも、変更しなくともよかったのではないか。原作小説の「ダフニスとクロエ」も十分にふさわしい選曲だったはずだからだ。原作者は吹奏楽経験者であり、吹奏楽曲についてはよくご存じのはずである。その豊富な知識をもって、傘木・鎧塚の中3のコンクール自由曲として「ダフニスとクロエ」を選んだはずだ。なぜ、十分にふさわしかったであろう「ダフニスとクロエ」は、「だったん人の踊り」に変更されたのだろうか。

このように、「天国と地獄」も「だったん人の踊り」も、選曲に不思議な点が感じられるのである---単なる成り行きではなく、何か暗黙の意図があってこれらの曲が選ばれたのだと筆者は感得するのだ。

「暗黙の意図」 筆者はここで妄想する---「天国と地獄」と「だったん人の踊り」が選ばれたのは、「天」「地」「人」の文字を織り込むためであった; それは、映像作品「響け!ユーフォニアム」の根底に「天・地・人」という世界観が暗黙に設定されていることを、もっともさりげなくしかし明確に文字の形で、作品の中に残すという意図でなされたのではあるまいか。

この「暗黙の意図」妄想は、筆者が1節で欠落していると指摘した「客観的で具体的な示唆」である可能性がある。すなわち、筆者が1章・2章を通じて妄想してきた「宇治信仰仮説と雅楽の思想に基づく天・地・人の世界観」と同一の概念が、映像作品自体の中に、文字というはっきりした形で示されているのかもしれないということである。

この可能性を見極めるべく、2楽曲の使われ方が、筆者の妄想してきた世界観と整合するか、それとも大きな矛盾が生じるか、3つの観点で検討しよう。

検討1) 制作上の観点 まず、この2曲の織り込みがなされたのが登場人物の中学生時代のコンクールの楽曲においてであったことは、二重の意味でうなずける。
一つは、楽曲の変更の自由度である。中学時の楽曲は、原作小説で曲名が言及されていなかったり、言及があっても物語の根幹ではなかったから自由度が高かった。高校時の楽曲は事情が異なり、自由曲は題名が物語の根幹に関わっていて変更は難しかったし、課題曲は実際の吹奏楽コンクールの課題曲から選ばれるのでこれも選択の余地があまりなかった。
もう一つは、物語の意味の整合である。登場人物の中学生時代とはすなわち過去、根源ということであり、そこに日本の古代という過去における根源的な世界観をもってきて据えることは非常にしっくりくる。しかも、北中が「天・地」、南中が「人」となるから、それらが合流した北宇治高校は「天地人」の世界であるということが明確に示唆されることになるのだ。

次に、2つの楽曲の選択に関する筆者の妄想はインタビューでの言及の状況とは矛盾しない。
「天国と地獄」が「天」と「地」の字を含むから選ばれたとする妄想は、インタビューで言及がないことと整合すると考えられる。この楽曲名の「天」と「地」は、設定された世界観を直接的に象徴する。もしこの曲の選択の過程を語れば、どうしても暗黙の設定が受け手に伝わってしまう。そうならないよう、この楽曲についてはインタビューで一切言及しないと取り決めがあったのではないかと、筆者は妄想をたくましくする。
「だったん人の踊り」が「人」の字を含むから選ばれたという妄想は、前節で示した「コンプリートブック」のインタビューの回答を補完していると考えられる。すなわち、インタビューでは、もちろん選曲のいきさつに関する真実が語られた---フルートとオーボエが活躍する佳曲を見つけたということだ。ただし、伏せられたことがあった---「天地人」の世界観が暗黙に設定されており、それらの文字を含む楽曲を探していたということだ。なぜ後者が伏せられたのか---もし後者に言及してしまうと、暗黙に留めるとしていた「天地人」の世界観を直接受け手に説明してしまうことになるからだ、と筆者は妄想した。

検討2) 「天国と地獄」の強い整合 「天国と地獄」は筆者のこれまでの妄想と強く整合すると考える。TVシリーズ、劇場版について詳しく述べる。

まず、TVシリーズでの楽曲の初出の場面を思い出そう。TVシリーズ1期1話後半、滝の初登場の場面である。宇治神社の鳥居を背にして現れた滝は、第一声で「上から、大吉、」とおみくじのうんちくを語る。つづいて、大吉山北中のコンクールの演奏の録音をきいていることが明かされる。

筆者は、1章・2章にわたる妄想を通じ、映像作品オリジナルのこの場面には重大な意図が込められていると受け止めてきた。場所、背景、セリフはこの受け止めを支持するが音楽の説明がつかなかった。
まず場所が宇治神社であることについて(2章10節の「宇治信仰仮説が新たに説明するもの」項 2)宇治神社)、筆者の妄念は "宇治川の化身、「先を行く青い水の龍」たる滝は、若人を飛翔にいざなうべく天の山から人の住む地に遣わされ、天地の境界である宇治神社に降臨する"というものであった。この妄念からすれば、滝の初登場の場所が宇治神社であることは必然である。
また場面の背景について検討すると(2章11節の「滝の初登場の場面が示す滝の神性」項)、滝が鳥居を背にしていることは、滝が天からの使命を背負っていることの象徴である。
そしてセリフの「上から、大吉、」とは、大吉山(仏徳山)は至高である、天の山は神聖であるという宣言である。
ところが、この場面で初めて出てくる楽曲が「天国と地獄」である理由は説明できなかった。本当に天と地を象徴するために選曲されたのか、まったく別の理由だったのか、判断材料がなかったのだ。もしかしたら "「これを演奏した生徒たちが、これから自分の赴任する北宇治高校の吹奏楽部に来てくれるとよい」と思っていた" とか、"これから巻き起こる悲喜こもごものドタバタを象徴するため、運動会などで使われるドタバタ感のある吹奏楽曲を選んだ" 、などの理由だったかもしれないのだ。

本節の妄想が、楽曲「天国と地獄」がこの場面で初めて出てくることの「確実な根拠」になるのではないか---もし、「天国と地獄」が「天・地・人」の世界観を伝えるため選ばれたのならば、滝の初登場の場面でこの楽曲が使われたのは、滝が天から地に遣わされた龍であることのあまりに明確な宣言に他ならない。それは「響け!ユーフォニアムは天と地の物語である」ということを見る者に暗黙にしかし鮮烈に宣言しているとも言えるだろう。
なお、 この場面にはもう一つ「天と地」を確信させる要素があるのだが、それについては本章後半で言及することにする。

次に、劇場版「ようこそ」について考えよう。大吉山北中がコンクールで楽曲「天国と地獄」を演奏しているシーンから物語が幕を開けている。筆者の妄想にしたがえば、これは劇場版においてもやはり「響け!ユーフォニアムは天と地の物語である」という宣言が一番最初に高らかになされているということになる。
劇場版「ようこそ」では、尺の関係もあって、滝の初登場というTVシリーズにおける重要な場面を採用することができなかった。そこで、場面の構成要素である楽曲「天国と地獄」を選びとり、その演奏から物語を始めることで、劇場版において「天と地の物語」という宣言を果たしたのではなかろうかと筆者は妄想するのだ。

なお、TVシリーズも劇場版も、「天国と地獄」の初出場面は映像作品オリジナルの構成であることにあらためて注意したい。映像作品を制作する際に、意志をもって、以上のエッセンスが盛り込まれたのではないだろうか。

検討3) 「だったん人の踊り」の整合 「だったん人の踊り」の初出場面もまた、筆者のこれまでの妄想と整合していると考える。大吉山北中の「天国と地獄」との対比、という形でその整合は浮かび上がるのだ。
まず、楽曲の曲調が対照的だ。「天地」を背負う大吉山北中の楽曲は、豪放な金管楽器が目立つ力強い楽曲である。一方の「人」を背負う南中の楽曲はより穏やかな木管楽器のフレーズが際立つ優雅で情緒にとむ楽曲である。
また、場面設定も対照的である。「天国と地獄」初出場面では、指導する側の強き龍・滝が一人で、神社という古くからの場所に登場し、おみくじのうんちくを語るという「優れているところ」が示されている。対して「だったん人の踊り」初出場面では、指導を受ける側の幼い者たちが大勢、高速道路とバスという現代的な場所に登場し、コンクール敗北の悲嘆にくれるという「弱いところ」が示されている。
なお、滝は金管奏者、一方南中は木管に優れるという原作小説の設定も、対比といってよいだろう。
この対比を通じて分かるように、筆者のこれまでの妄想で "若人達は天地人の世界観のなかで「人」である" としていたことが、南中の若人達が悲嘆にくれているこの根源的な場面で「だったん人の踊り」が流れるという事実と、整合しているのである。

結語:「天地人」の妥当性 以上の3つの検討の結果、筆者の1章・2章にわたる妄想とこれらの2楽曲の使われ方は、矛盾なく、強く整合していると判断できるだろう。
映像作品「響け!ユーフォニアムの根底には何かの世界観が暗黙に設定されている」と感得した筆者は、これまでに、宇治の伝承や雅楽の思想を参照することで作品の世界観を説明する妄想を重ねてきた。しかし、それらの参照による映像作品の解釈というアプローチが妥当なものだと主張できる根拠を欠いていた。 本節では、映像作品の重要楽曲の名前にやはり「天・地・人」が現れるという気づきから出発し、その楽曲の表れ方が筆者の妄想してきた世界観と整合することを確かめた。 映像作品そのものに「天地人」の世界観が暗黙に想定されている可能性は、高い。 「天国と地獄」と「だったん人のおどり」はこの「天地人」の暗黙の世界観を示唆すべく選曲され、映像作品オリジナルエピソードの形で提示されたのだと、筆者は妄想を結論付ける。

追補:「空」 古代の合奏である雅楽の世界観が暗黙に引用されていると認めることにより、「空・龍」の概念もまた、「響け!ユーフォニアム」の根底の暗黙の世界観に含まれることになる(2章4節「宇治と吹奏楽を結びつける龍」の「雅楽における龍」の項)。すなわち天と地(人)の間の空を龍が舞う様を演奏で表現するということである。
この暗黙の想定のもとでTVシリーズ1期が制作され放映された2015年4月-6月の終盤の6月17日、翌2016年度吹奏楽コンクール課題曲「マーチ・スカイブルー・ドリーム」が決定する。まったく偶然にも、暗黙の世界観の一つ「空」に呼応する楽曲が出現してくれたのだ。「2年生編を制作することになった場合は課題曲はこの曲で」というような検討もさっそくなされたのではないだろうか。この案は、実に4年近くのち2019年4月に公開された劇場版「誓いのフィナーレ」(40分45秒付近)で確定されることとなった。

3.4. 花・鳥・風・月

(2023年8月21日:本節以降、執筆中)