梗概本章は、響け!ユーフォニアムの形成過程に関する妄想である。観点としては2章「舞台と役者」と同様であるが、(1)原作小説に書かれて「いない」点の議論であるので客観的たりえない (2)「作品に関する妄想」の範疇を外れている 以上の2点から、2章と分離して扱う。註:本章の内容も他の章と同様、検討に値する仮説、まして事実だと扱ってはならない。筆者は純粋に荒唐無稽な妄想を楽しくひねり出してそれを綴っているに過ぎず、真相を言い当てようなどという意図をまったく有していない。当然ながら原作者に真偽を問うてみるなどという意志も皆無である。将来本章の内容に反する事実が新たに明らかになったとしても、完全に妄想であるので、何ら修正する意志をもっていない。 本章の論旨は次のとおりである。
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原作者による言及 原作者が「響け!ユーフォニアム」の形成過程について語っている資料として次の3つがある。
響け!ユーフォニアムの形成過程の再構成 以上をもとに「響け!ユーフォニアム」の形成の過程を再構成してみると次のようになる。
1) 主人公・タイトルの決定 再構成した形成過程のの7., 8.は「執筆開始の直前までトランペットの子が主人公であったが最終的にユーフォニアムの子が主人公となり、タイトルも「響け!ユーフォニアム」に決定した」という、公になっている事実を反映している。資料によればその理由は「トランペットが主人公では上手な1年生が3年生を打ち負かし怠け者を成敗する話になってしまうから」あるいは「天才で努力家が主人公では読者が息苦しいから」である。
筆者はこの説明の裏に何かあった、と感得した---物語の形成過程を上記のように再構成してみれば、ユーフォニアム経験者である原作者が最初からユーフォニアム奏者を主人公にしたかったことは自明であろう。筆者の妄想は次の通りである:
2) 人物造形と担当楽器の呼応 再構成した形成過程の3.に関連して、原作者は「考えて、ちょっと柔らかめの子が多いなと」という趣旨のことを述べている。この発言の背景として、次の2つが考えられるだろう。1つは、原作者自身の吹奏楽の経験からそう感得した可能性。もう1つは、取材などを通じ、吹奏楽・オーケストラにおいてしばしば語られる「この楽器を担当する人はこういう性格」という冗談を知って取り入れた可能性である。
原作者は、自ら感得したのか取材を通して知ったかはともかく、こうした見方を人物造形に生かしている。
筆者は、ここには、さらに秘められた確固たる理由があるのではないかと感得した。これについて2補2節で詳細に述べることにする。
3) 観光名所に関する謎 再構成した形成過程の2.および9.からすれば、宇治の観光名所である平等院と興聖寺は大いに物語に取り上げられて良いはずだ。特に、原作者は「平等院は取り上げた」としている。ところが実際には、これらの二つは物語にほぼまったく出現していない。
筆者は、この謎から妄想をはじめ、「響け!ユーフォニアムの形成過程には特異な点があった」という妄説に到達した。これについて、2補3節以降で論ずることにする。
呼応の事例 「響け!ユーフォニアム」において、人物造形は担当楽器にしばしば呼応する。中心人物、黄前久美子と高坂麗奈の造形はその典型例である。
ユーフォニアム担当の黄前久美子は、俗なところもあるが、物語を通じ、苦悩する人物に次々と関わり、支え、救ってゆく。最終的には部全体を支えることになる人物である。こうした人物造形は「機動性にとみ、音域の広さで様々な楽器と関わりつつ、まろやかな中低音でアンサンブル全体を支える」というユーフォニアムの性格に呼応していると言ってよい。
トランペット担当の高坂麗奈の造形も同様だ。高坂は大変に勝気な人物と言ってよいだろう。その人物造形が、出音の高さ・輝かしさや、それゆえの「アンサンブルをリードする存在」というトランペットの性格に呼応しているのは明らかである。
呼応しない者の物語 一方で、響け!ユーフォニアムにおいては、担当楽器と性格が一致しない登場人物もおり、そこに物語が生じている。もっとも顕著な例は、ユーフォニアムらしい黄前とユーフォニアムらしくない田中、トランペットらしい高坂と(一見)トランペットらしくない中世古という対比であろう。「らしい」1年生の黄前と高坂、「らしくない」3年生の田中と中世古というペアになっているのだ。
「ユーフォっぽくない」田中あすか---実際、去った父とつながれるユーフォニアムさえ吹ければよいと考え、多くの人を支える部長職を回避し、他人から距離を取っている---は、自分は特別と考え物事を諦観してしまっている。そんな彼女が、「ユーフォっぽい」黄前との出会いと交流を通じ、特別でない素直な自分を取り戻してゆく。後輩により変化がもたらされ、彼女は救済されたのである。
「トランペットらしくない」中世古香織---ただし彼女は決して「弱い」人物ではない。2年の時から先輩たちに練習を促すなど勇気ある行動をとりつづけている。3年生では、自らのソロの夢を投げうって、全部員に自分の演奏をきかせ高坂の能力を納得させて、部を崩壊から救った。最強の人物といってよい。それは、彼女とともにあったトランペットが、彼女をそう変えたのだと、考えられるだろう。
小日向夢もまた、先輩・加部友恵の粘り強い支えのもとで、ついに、トランペット担当であることの意味を自覚し、長年の弱点を克服する。やはり、トランペットが彼女を変えたのだ。
呼応の理由 担当楽器に呼応させて人物を造形したというのは、吹奏楽を題材とする「響け!ユーフォニアム」ならではの面白い工夫だ。この工夫を原作者自身かなり気に入っているからだろう、インタビューでも複数回の言及がある(2補1節の再構成の3.および資料1)。
筆者の心中にここで妄想が沸き起こってくる---ここに、何か秘められた理由があったとしたらどうか。原作者が経験を通じてそう思った、あるいは取材を通して知った「よく言われる冗談」を踏まえた(2補1節「担当楽器の性格」)という表面的な理由の奥に、もっと堅固な理由があると筆者は妄想したのだ。
「持物」 筆者が思い至ったのは、仏教の「持物(じもつ、じぶつ)」の概念である。
持物とは何か---コトバンク「持物」(2022年7月11日参照)の解説(「デジタル大辞泉」)によると次のとおりである(引用):
仏像が手に持っている物。その諸尊の性格・働きを示す標幟で、観世音菩薩の水瓶、薬師如来の薬壺、不動明王の剣など。じぶつ。
この妄想をもって作品を鑑賞する筆者の目には、楽器を抱く登場人物たちの姿が、持物を手にする仏像のように感じられてくる。どの登場人物も尊く、そして唯一無二の個性を有しているということが、持っている楽器の性格によって強調されているし、彼ら・彼女らの懸命な自己鍛錬の姿はさながら如来になろうと精進を重ねる菩薩のようである---そう、平等院鳳凰堂の52躯の雲中供養菩薩像だ。
「響け!ユーフォニアム」の世界観との呼応 さらに考えを進めると、「持物」は「響け!ユーフォニアム」の「超越的な存在による導き」という世界観ともつながっているということが感得される。詳しく述べると、まず超越的存在は、若人達の覚醒をうながすべく、舞台装置を用意し、指導者、音楽、そして楽器を若人達のもとに遣わしている。すると、楽器は超越的存在によって意思と性格とを吹き込まれた主体として、鍛錬の場である学校に「居る」ことになる。それらの楽器は、学校に入り、縁あってそれを手にする若人に寄り添い、各々の性格に応じた善き導きを若人に与え、自己鍛錬と飛翔の道へといざなっているのだ。このように「楽器が、それを手にする者を特徴づける」という「持物」の概念は、超越的存在による導きの一環となっているのである。
付言 2章4節において「音楽という龍」の項で「善き龍が音楽となり、さらに音楽を生み出す楽器となって若人達に寄り添っている」「若人達は無意識に、楽器には魂が宿り、人と契りをむすんでくれていると感得している」と述べた。本節の検討は、その漠然としたイメージを確認し具体化したといえるだろう。
登場しない2つの名刹 「響け!ユーフォニアム」の物語には、平等院・興聖寺がほぼまったく出現しない。原作小説の中で、平等院という語は2回(「」p.xx)のみ。興聖寺は0回である。映像作品においても、両者はこれまで一度も描写されていない。宇治神社・仏徳山展望台・縣神社が原作小説においても映像作品においてもたびたび描かれているのと対照的である。
大きな謎 これは大きな謎だと筆者は感じる。平等院・興聖寺のいずれも、1章3節の3)および5)で示した通り、宇治の名刹である。特に平等院は数多くの国宝を擁する世界文化遺産であり10円硬貨の裏面にも描かれているほどその知名度は高い。さらに平等院鳳凰堂は52躯の雲中供養菩薩像という稀有ないにしえの楽団の像を擁しており、楽団をテーマとする「響け!ユーフォニアム」との親和性はきわめて高い。
これらの二つの名刹も、神社と同様に物語に取り入れて描写するのが自然ではないだろうか。2補1節で再構成した物語の形成過程の2.および9.において、原作者は、「響け!ユーフォニアム」の執筆の動機として「宇治の街並みを形に残しておきたいと思った」と語り、さらに「(宇治市内の観光名所も)なかば強引に入れた感もありますが(笑)。意識したのは「ある程度メジャーな観光地であること」。なるべく誰でも行ける場所として、平等院や塔の島、天ケ瀬ダムなどをチョイスしました。」と述べている(資料1)。平等院は物語に取り入れた、としているのだ。
たとえば、登場人物が平等院に参拝して、いにしえの楽団に思いをはせたり決意を新たにするといったエピソードがあってもおかしくない。また興聖寺にしても、境内に至る美しい琴坂でつとに有名であり、その紅葉の風景を描いたり物語に生かすといったことは十分に考えられたはずである。
映像作品にしても同様だ。両寺の境内を描くまではゆかなくとも、たとえば両寺の山門の外観を背景に登場させるだけで、国内外に向けて「響け!ユーフォニアム」が宇治の物語であることを伝えられたように思われる。
しかし、実際には、両寺は物語にほとんど関わってこない---これはやはり、大きな謎である。
現実的な理由 「響け!ユーフォニアム」に平等院・興聖寺が出現しない理由として、現実に目を向けたとき思い当たる点はある。両寺の境内は参拝に拝観料を必要とする場所であり、またその際に「撮影した映像の営利利用はできない」と了解をとっていることだ。
参考:平等院鳳凰堂を無断撮影してジグソーパズルに 在庫廃棄などで平等院と玩具会社和解 京都地裁 (2020年10月12日京都新聞)
両寺と異なり、宇治神社・宇治上神社・縣神社の境内地に入るのは無料・自由である。その分、小説や映像作品において境内地に入る様子を描写することに制約が少ないということはあるかもしれない。
筆者の推察 だが、それだけだろうか。ここには、さらに何か深層が隠れているのではないか---妄想を信条とする筆者は、ある一つの推察を感得した。これについて次節以降で述べていく。
平等院 平等院は特定の宗派に属さない寺院であるが、基層には浄土信仰があると考えてよいだろう。平等院の由来については、平等院Webサイト内「古今平等院」に、次の記述がある。
浄土信仰とは何か。誤りのご指摘をいただく前提で筆者の浅はかな理解を述べさせていただくとすれば「阿弥陀仏のおられる極楽浄土という世界がある」「阿弥陀仏の本願により、人は、観仏や念仏によってその浄土に往生することができる」といった考え方であろう(参考: 「浄土信仰」Wikipedia, 2022年6月25日閲覧)。 庶民はこの教えを「自分も極楽に行けるのだ」と受け止め、喜んで信じたことだろう---「厳しい修行で悟りを開かなくても、莫大な寄進をしなくとも、様々な欲にとらわれ罪深い行いをしていても、お念仏さえ唱えれば、仏さまは救ってくださるのだ」と。
極端な言い換えをお許しいただくならば、平等院は「すべての人は救われるという考え方の象徴」であると見立てることができるだろう。
興聖寺 興聖寺は、1章3節5)で述べた通り曹洞宗の寺院である。これもまた、誤りのご指摘をいただく前提で筆者なりにまことに雑駁にその宗旨を述べるならば「坐禅の実践によって得る身と心のやすらぎが、そのまま「仏の姿」となる」とする考え方であろう(参考:曹洞宗とは>宗旨・教義, 曹洞宗Webサイト)。
さらなる言い換えをお許しいただけるならば、興聖寺は「人は自らを鍛え善きものとなるべきという考え方の象徴」であると見立てられるだろう。
ここで、二人の人物造形を表形式で対照してみよう。
観点 | 黄前久美子 | 高坂麗奈 |
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担当楽器 | ユーフォニアム。派手ではないまろやかな低い音で、さまざまな楽器と関わってアンサンブルを支える中心的存在 | トランペット。派手で力強い、輝かしい高い音。アンサンブルをリードする孤高で先端的な存在 |
将来を目指す覚悟 | 高坂に感化されて徐々に自己鍛錬と向上の道に覚醒し、ひたむきな努力は重ねてゆくが、プロを目指すほどの覚悟はもっていない | 特別なプロの奏者になるために、人生のすべてを賭け、自らに厳しい鍛錬を課している |
友人との交際 | 昼休みや学校からの帰り道、友人と楽しい時間をもちコミュニケーションすることを大切にする | 「みんなと同じで安心するなんて馬鹿げてる」と考え一人で居ることをためらわない |
異性 | 幼なじみの塚本秀一の存在。素直には成れないが、近くなったり遠くなったりを繰り返し、最後にカップルとなる | 滝先生のことがLOVEの意味で好きだと言うが、大人の男女の関係を望むというよりは、幼児がヒーローに心酔するのに近い |
物語全体を通じた役割 | 「黄前相談所」。苦しむ人に関わって支える役割。中川夏紀、田中あすか、鈴木美鈴、久石奏と、悩み苦しむ人を次々と支え、救っている | 実力がすべてという主張を貫き、コンクールでの勝利を目指して周囲にも厳しい自己鍛錬を要求する。時として人を苦しませる |
特徴 | 直言。自分では「失言、欠点」と認識しているが、人が気を遣って口にしない物事の本質を鋭く問う優れた資質である 許す。全編を通じ幾度かの「許す」場面がある |
精進。周囲の他人に関わって影響を与えていくよりも、一人、自己鍛錬にまい進し道を探求する 厳格。船着き場の「許さないから」が象徴的、しかし盲信に近い。弱点でもある |
表2補.1を見ると、黄前は浄土信仰的・「平等院的」。高坂は禅宗的・「興聖寺的」ということがあらためて実感できる。特に黄前が物語を通じて、俗物の側から、許し救う側へと成長していくことを思い起こすと、いっそう納得感が増すだろう。高坂の、孤独な自己鍛錬にまい進する姿勢についても、禅宗的なものだと考えるとまことに合点がいく。
だが、1章・2章を通じて黄前は四神(五神)の黄龍、高坂は青龍であると見立ててきたことからすると、これは不思議な事態である。神龍の見立ては、龍の神が統べる宇治の物語として一定の説得力を有していた。ところが、原作者の思考の基盤に仏教が存在する可能性を検討してみると、異なる見立てが浮かび上がってきたのである。
お寺の擬人化という着想 お寺の擬人化という唐突な着想には理由がある---「艦隊これくしょん」の存在である。「艦隊これくしょん」は、2013年4月23日にブラウザ版ゲームとしてサービスを開始した。歴史上の艦艇が若い女性に擬人化されたこのゲームは、徐々にユーザ数を増やし、ついにはアニメーションが制作されるなど一大コンテンツに成長した。 響け!ユーフォニアムの原作者はゲームが好きと公言しており、おそらく「艦隊これくしょん」のことも4月のサービス開始と同時に知っただろう。ここで、筆者の、原作者の思考過程に関する妄想が始まる。その妄想を書き下すと次のとおりである。
お寺になぞらえた人物造形 筆者の、原作者の思考過程に関する妄想はさらに続く:
お寺以外への拡張 筆者はさらに妄想を膨らませる---原作者は、宇治のお寺だけでは数にも多様性にも限りがあるから宇治以外の有名な社寺も取り入れようと考えたのではないか:
超越的な存在 筆者の妄想はさらに、指導者にも及ぶ:
執筆の開始 2補1節で形成過程を検討した際には、9.において「おそらく2013年5-6月ごろ?宇治の観光名所を入れつつ、執筆に着手した。」とした。この時点で原作者が考えたかもしれないアイデアとして、筆者は次のような妄想を膨らませる。
お寺の擬人化の再考 物語の執筆がある程度まで進んだところで、あることが判明し、お寺の擬人化というアイデアの再考がなされたのではないか---というのが筆者の次の妄想である。
具体的に述べるとそれは、お寺に対して「お寺を擬人化した人物達の物語です」という説明でご了解を得ることは難しいことがわかってきた、というようなことであろう。実際、お寺にしてみれば、単に風景や位置関係の説明として名前が出てくるのはよいが、自分たちが守っているお寺が、物語の主な構成要素、まして意思をもって発言し行動する登場人物として自分たちのコントロールの及ばない形で描かれるとなれば懸念は非常に大きいだろう。また、拝観料をいただいている境内の様子についてはその写真などの映像の商業利用を断っている経緯もある。さすがに、どうぞどうぞとは言いがたかったのではなかろうか。
この事態が、出版社側の調査でわかったのか、原作者自身が取材などの過程で気づきを得たのかは知る由もないが、ともかくも、お寺を擬人化してしまうという当初のアイデアは再考されるにいたったのではなかろうか---それが、筆者の妄想である。
物語の新たな基層 筆者はさらに妄想を加速させる---原作者はここでこう思い立ったのではないだろうか:「物語には一貫した基層が必要だ。お寺の擬人化を基層とする案はだめだった。では何を基層としようか。私の願いは、変わりゆく宇治の街並みを形に残しておきたいということ。ならば、長い歴史を持つ宇治を大切にするという意味で、宇治の神社のいわれ、また古代からの地域の伝承を、これまで以上にふんだんに取り入れて、土台となる世界観をつくろう」と。すでに、「水の竜、滝」の名を決める際に少しそのことを考えていた原作者は、ふたたび宇治の地図、歴史や伝承の資料を調べはじめた---。
原作者が宇治の小学校や中学校で学んだ郷土の歴史や言い伝えも、そこにはあったかもしれない。執筆の意思を固めた時点ですでに、相当な調査をすませていたかもしれない(滝の名も、その調査結果をもとに定められたのかもしれない)。時期はともかく、次のような要素が改めて吟味されたのではないだろうか---。
登場人物の要素の改訂 黄前と高坂(琴坂)、さらに指導者について変更が加えられたことであろう。具体的にはつぎのような点である。
二人の家の位置については、「平地と山地の境界」という新しい基層をふまえ「家の位置は平地と山地のどちらともいえない位置とする」というアイデアを盛り込んで次のように変更された。
黄前の家については、平等院の至近としていたのを、少し離れた場所と変更した。擬人化と受け取られないよう配慮しつつも、西岸という設定を維持して物語の大変更を避けたものであろうか。原作者の「黄前は宇治の中心的象徴、平等院の阿弥陀如来様の姿」という根源的な暗黙のアイデアに、影響はなかった。
高坂の家は「宇治上神社の近く」という記述にする。「興聖寺の近く」からの変更である。
その理由の一つ目は、黄前の家は平等院の近く、高坂の家は興聖寺の近くという当初の設定をそのまま明確に描写しすぎると、「黄前は平等院、高坂は興聖寺」という印象につながるが、これは避ける必要がある---という配慮が働いたことであろう。
理由の二つ目は、高坂の「幼い頃、たびたび興聖寺に預けられることがあり、厳しい修行の様子を目にして育った」というアイデアが取りやめとなり、興聖寺の近くとする必然性がなくなったことであろう。
その他にも様々な理由がありそうである。いわく、・宇治上神社ならば、家の位置が山地側・平地側どちらにも設定できること ・東岸という設定を維持でき、興聖寺とさほど遠くはなく、執筆済の物語の改訂が少なくて済むこと ・さらに調査の過程で、平等院と宇治神社・宇治上神社の一体信仰の存在がわかり、ならば、高坂は宇治上神社、黄前は平等院という暗黙の設定も悪くない(むしろ正当性がある)と判断したこと などである。
人物造形は変更せず、ただし新たな要素が加わる形となった。結果的には、仏教・地域の古来の伝承といった複数の観点からの要素があいまって、まことに奥深い黄前久美子・高坂麗奈という人物造形が完成したのである。以下、その要素を3つに分けて述べてゆく。
まず根底にあるのは、構想の最初期からあった「柔らかめのユーフォニアムの黄前、気の強いトランペットの高坂」である。繰り返しとなるが、「平等院鳳凰堂の阿弥陀如来様と重なってゆく主人公」という原作者の原主題は、揺らいでいないのである。
次に、平等院と興聖寺との関連付けの中で黄前と高坂にそれぞれ付け加えられた浄土信仰的・禅宗的な要素も維持されている。「お寺の擬人化」の案は再考となったが、二人に付与した要素まで捨て去る必要はないという判断があったのであろう。実際、人物は人物であって、特定のお寺を擬人化したと示唆しなければ良いというのはうなずけるところである。
具体的にはこうだ---黄前は、すべての人は救われるという思想に沿い、煩悩にまみれた俗物から、許し、支え、救ってゆく存在へと成長する。その構想のもとで、人に関わり、直言により本質を問い、過ちを犯した人をも許す---そのようにして、悩み苦しむ部員を次々救ってゆく存在となっていったのだ。一方の高坂は、自らを鍛え善きものとなるという思想に沿い、ひたすらに孤独に厳しい自己鍛錬を重ね、他者のいい加減さを許さず、また、座禅の警策(曹洞宗の興聖寺ではきょうさく)のように耳の痛い言葉をのぞむ、そういう人との関わりを求める。そうして、先を行く者を追って特別な者になろうとひたむきに志す存在となっていったのである。
そして新たな世界観の導入により、黄前は四神(五神)の中央の黄龍、高坂は東の青龍への関連付けを強めることとなった。地理的には無理のある設定である---黄前のいる西岸の平等院を中央としたとき、高坂がいるのは、東岸ではあっても決して真東ではないので、東青龍とは見立てがたいのである。それでも、原作者の「宇治の中心的象徴である平等院鳳凰堂の阿弥陀如来様に重なる黄前久美子」という原主題を踏まえたとき、黄前が同時に中央にあって全体を統べる黄龍でもあるという見立ては(黄の字の符合もあいまって)、受け入れられるものであったのだろう。
この見立てにより、黄前には、単に許し救うだけでなく、統べる能力という要素が付け加えられた。単なる失言ともとれる直言の段階から、人の心をたくみに操って組織の結束を保つというような、ある意味で空恐ろしい能力が備わることになったのである。また高坂には、それまでの自己への厳しさに加え、東青龍にふさわしい攻撃性が備わった。幼いがゆえの、青龍のような絶叫、咆哮。力こそ正義であり勝利であるという危うい無邪気な確信。その根源は超越的存在、そして善き龍・善女龍王の導きに行き着くとは言え、またその導きが、たくましい龍に成長し広い世界へ飛翔せよという善きものであるとは言え、二人に備わった龍の力強さは、頼もしくも恐ろしさを秘めたものである。
なお、指導者についても、新たな世界観に基づいて掘り下げがなされたことだろう。滝はすでに水の竜としていた。滝を、改めて、山地から平地に降臨し恵みをもたらす善き龍たる宇治川の象徴と見立てる。そして滝の未熟な部分を支える、滝よりもさらに上位の二人の指導者を導入することとした。一人は西笠取清瀧宮の善女龍王をモチーフとした新山聡美。また一人は龍たる宇治川にかかり平地と山地を結ぶ橋をモチーフとした橋本真博である。執筆の途上で入った、「お寺の擬人化」の再考は、結果的にそのあと登場する指導者達の「宇治の物語に真にふさわしい、宇治のいにしえの伝承に深く根ざした」人物造形をもたらしたことになる。
エピソードの改訂 以上のような、新しい世界観の導入に基づく登場人物の要素の改訂がエピソードに与えた影響を改めてまとめておこう。
まず、お寺が直接的に関連する次のようなアイデアは慎重に取り除かれたのだろうと筆者は妄想する。
一方で、次のように、お寺に直接的には関連していないエピソードは残された。
結語 いささか長大とはなったが、このようにして筆者の盛大なる妄想は完結する。振り返ると、最初期の構想、「艦隊これくしょん」に触発されたお寺の擬人化の着想の導入と人物造形、執筆開始、お寺の擬人化の再考と、新たな基層・世界観の構築、舞台と人物造形の改訂というステップを経て、「響け!ユーフォニアム」の第一作の執筆は軌道にのったのだ---という妄想であった。
かくして「響け!ユーフォニアム」の第一作は完成・発刊に至り、爆発的な人気を博した。その後のことについては、人々が広く知るとおりである。
その上で改めて「響け!ユーフォニアム」の形成過程に関して筆者が繰り広げた3つの妄想を振り返ると、以下の通りである。
1つ目は主人公の決定に、「一度あきらめたが励まされて再度主張し認められた」経緯があり、それがあすかの重要なエピソードに帰結しているという妄想であった。
2つ目は、この作品で人物造形と担当楽器が呼応しているのは、仏教の「持物」の考え方であり、それはこの作品の「超越的存在による導き」の世界観の一環を成すというものであった。
3つ目に、物語に平等院と興聖寺が出現しないことに着目し、作品の形成過程に関して盛大な妄想を繰り広げた。原作者の原主題「宇治の象徴、平等院の阿弥陀如来様に重なる主人公黄前」を妄想し、ついで「お寺の擬人化」による浄土信仰・禅宗的な要素の黄前・高坂への付与。つづいてその再考をへて導入された新たな世界観---四神(五神)の黄龍・青龍---にそった要素が黄前・高坂に付与されたと妄想した。この形成過程は、2つ目の妄想をも説明すると言える。
では最後に、宇治神社の船着き場の場面を題材として、盛りに盛った妄想を吟味し、本稿を締めくくろう。
塚本と黄前が滝の能力を疑う発言をしていると高坂が通りかかり「許さないから」としかりつける。なんでここにと驚く塚本に、高坂は「アタシ、この近くに住んでるから。宇治上神社の近く」と告げる。この高坂が上流から現れることの不思議さ。
高坂の自宅が宇治上神社付近だったならば、六地蔵方面の北宇治高校から自転車で下校してきた高坂が帰宅するのに、船着き場は通らない。船着き場の上流側に習い事の場所があってそこに直行する途中だったならば、高坂は下流側から現れるはずであるが、逆である。といって、習い事を終えて帰ってきたとも考えにくい。なぜならまだ下校後まもない時間帯だからだ。
上流からの高坂の登場は、新しい世界観のもとでの舞台設定と整合はしている---平地と山地の境界線は、ちょうど宇治神社の鳥居を通っており、俗な発言がなされた船着き場は平地側、厳しく叱責する高坂がやってきた上流方向は山地側であるからだ。だが、高坂が、上流で何をしてきたのかがわからないのだ。
高坂は上流で何をしてきたのか。上流には何があるのか。
本稿の一連の妄想を踏まえ、筆者はこう答えよう---船着き場の場面で高坂が上流から現れるのは、「響け!ユーフォニアム」の初期の構想の痕跡なのだと。
付言するならば、映像作品では、TV1期4話Aパートでこの船着き場の画面が忠実に映像化されており、高坂は原作通り上流側から登場する。劇場版「ようこそ」に至っては、TV1期になかった、自転車で疾走し下流に向かう高坂のカットまで追加されている。原作小説を読み込んで制作陣は当然「高坂は上流で何をしていたのか?」と思ったはずだが、その通り映像化しているのだ。筆者が妄想するに、原作者から「本当は高坂の家は、興聖寺のそばだったんです」と説明があったのではないだろうか。
京都アニメーションはさらに、TV2期11話はつこいトランペットBパートで、中学生時代の高坂が観流橋の上で練習中、滝が現れ、滝から楽譜をもらうというオリジナルシーンまで挿入している。高坂はなぜここで練習をしているのか。なぜ滝はここに現れたのだろうか。
これは、「高坂が上流から現れるのは、初期構想の痕跡」という妄想の傍証であるように思われる。
今後、高坂の家が判明する機会はただ一つ、2024年の三年生編の映像作品で、黄前の高坂宅訪問のエピソードが映像化される際である。原作者と京都アニメーションの合意がどのようなものであったのか。それまで、悪いことをせず、元気で、待ちたいと筆者は心に誓う次第である。