1. 龍の気配

1.1 プロローグ 「響け!ユーフォニアム」と宇治・宇治川

小説「響け!ユーフォニアム」の舞台、宇治。

京都の南東、辰巳(たつみ)の方角に位置する宇治を特別な場所にしているのが宇治川である。まずはその平面的・立体的な観察から始めよう(図1.1)。


図1.1 宇治川の流れ、および山地と平地の境界
(国土地理院GSI Mapsより引用)

まず、平面としての宇治川の流れをとらえておこう。近畿のみずがめ・琵琶湖の水は、瀬田川となって流れ出す。大石で西に向きを変えてほどなく京都府に入り、笠取川が合流してくるあたりで南西へ。ここから喜撰山・大峰山の間の険しい谷を曲がりくねって進み、北西に向きを変えてほどなく、ついにこの宇治で山地を抜け平地に出て穏やかな流れに変容、今はなき巨椋池で小休止ののちはるか大阪湾目指して平野部を流れてゆく。

宇治川のこうした流れ自体が龍のような気がする。笠取から喜撰山・大峰山の間を曲がりくねって進むさまはまさに巨大な龍のようだし、山から龍が出てくる場所が宇治だと考えるとなんだか宇治がとても神聖な場所のような感じがしてくるから不思議だ。

さておき、宇治の象徴ともいえる宇治川のこの流れを「第1の線」としよう。

1.2 宇治川が山から舞い降りる地、宇治

つづいて宇治川流域の地形を立体的にみてみると、宇治が特別な場所であることがさらにはっきりする---宇治は、山地と平地の境界に位置しているのだ。この「山地と平地の境界」を「第2の線」としよう。 図1.1にはすでにこの第2の線を書き込んである。自然の地形には珍しく、この境界はかなり直線的で、地図の陰影からはっきりとみてとることができる。さらに、琵琶湖水系の高低差を示した図1.1補からも、宇治川の天ケ瀬ダムまでが高い土地、そこから下流が低い土地であって、宇治は山地と平地の境界に位置していることが確かめられる。

図1.1補 琵琶湖水系の高低差
(独立行政法人水資源機構琵琶湖開発総合管理所Webサイトより引用)
龍のごとくに舞いながら高い山地を越えてきた宇治川の豊かな水の流れは、まさに宇治で山地から平地へと降り立ち、両者をあい結んでいるのだ。

2つの線が交わるこの宇治の地に、古代の人々もまた特別な意味合いを感じたからであろう、京都の南東に位置するこの地には、京都市中と同様に、まことに由緒ある神社仏閣が集中している。萬福寺。縣神社。平等院。宇治神社、宇治上神社。興聖寺。また笠取の清瀧宮。

宇治川、そして山地と平地の境界---この2つの線の正確な交点はどこなのだろうか。この2つの線以外に特別なものはないのだろうか。これについて考えるために、次に、宇治の地の神社仏閣について検討してみることにしよう。

1.3 宇治の神社仏閣と龍

神社仏閣といえば古来から龍がつきものである。宇治川にそって建つ社寺のいくつかを思い起こしてみよう。

1) 黄檗山萬福寺

黄檗宗総本山萬福寺は1661年に中国僧「隠元隆き(いんげんりゅうき. 「き」は王偏に奇)禅師」によって開創 された。その伽藍配置は中国明朝様式を取り入れており、境内の建物を結ぶ参道は「石條(せきじょう)」と言って龍の文様である:

「境内に縦横に走っている参道は、正方形の平石を菱形に敷き、両側を石條で挟んだ特殊な形式であり、龍の背の鱗をモチーフ化したものです。中国では龍文は天子・皇帝の位を表し、黄檗山では大力量の禅僧を龍像にたとえるので、菱形の石の上に立てるのは住持のみです。」

(黄檗山ホームページ の記述より引用)

また主要な建物は屋根のついた通路で結ばれている。その天井は蛇腹天井(じゃばらてんじょう)と言われている:

「黄檗天井ともいい、龍の腹を表しています。本堂のほか、法堂、開山堂の主要建造物の正面一間分の軒下の垂木はこのように丸く、かまぼこ型をしています。中国・チベットにも同様のものがあり、「檐廊(えんろう)」と呼びます。」

(黄檗山ホームページ の記述より引用)

写真1.1 石條 (黄檗宗総本山萬福寺)
2) 縣神社の手水と鳥居

縣神社の起源は不詳だが、古くは大和政権における県(あがた)に関係する神社と見られている。平等院の建立の際、裏鬼門(南西方位)の守りである鎮守社とされた。その手水の意匠は龍である(写真1.2)。また、現在の敷地のコンパクトさに比して、参道の入口に建つ石の鳥居の大きさは印象的である(写真1.3)。

参考文献URL:
写真1.2 縣神社の手水の龍 写真1.3 縣神社参道の石の鳥居
3) 平等院

平等院の梵鐘は「勢の東大寺鐘」「声の園城寺鐘」とならび「姿の平等院鐘」として天下の三名鐘に数えられる。この平安時代の作の梵鐘にも龍の意匠が用いられている:

「鬣を真上に逆立たせた竜頭が飾られたり、宝相華唐草の地文の上に鳳凰や、踊る天人などが描かれていたりします。撞き座に向かって龍の首が向くのも平等院鐘からです。現在、鳳翔館で拝観できます。」

(平等院ホームページの記述より引用)

また龍の気配という主題からは外れるが、平等院鳳凰堂といえば、阿弥陀如来坐像をとりまく52躯の雲中供養菩薩像が余りにも有名である。

「南北それぞれコの字形に阿弥陀如来を囲んで並んでいます。南北半数ずつに分けて懸けられ、(中略) いろいろな楽器を演奏したり舞を舞ったり、あるいは持物をとったり、合掌したりしています。」

(平等院ホームページの記述より引用)
まさにお浄土の楽隊であり、来迎という宗教上の重要さもさることながら、古代から平安時代にわたり実在したであろう楽器の形とその演奏法を知る意味でも極めて貴重な文物である。
4) 宇治上神社・宇治神社

菟道稚郎子(うじのわきのいらつこ)皇子を祭神とする宇治上神社・宇治神社。仏徳山のふもと、宇治川のほとりに位置している。両神社には龍の気配がない。あるのは兎である。宇治神社にいたっては手水も龍ではなくて兎である。


写真1.4 宇治神社の大鳥居(2018年9月の台風21号で倒れ2019年12月25日に再建)

宇治神社の名はすでに『延喜式神名式(延喜式神名帳)』(927年)にありその歴史はきわめて古い。宇治上神社そのものが、菟道稚郎子の離宮「桐原日桁宮(きりはらひけたのみや)」の旧跡だともいわれる。明治時代までは二社一体であり宇治離宮明神などと称していた。明治に分離の後、宇治上神社は1952年より国宝。1994年には、現存する日本最古の神社建築として世界文化遺産に登録。2004年には、年輪年代測定により本殿が1060年頃の建立とわかりその古さが科学的に裏付けられた。

日本書紀にすでに「菟道河」の記述があることから、地名が先に菟道(うじ)であって、菟道稚郎子の一族が地名をいただいた可能性が高い。もう一つの説は、山城国風土記にあるように、菟道稚郎子皇子がこの地に居住したことからこの地が菟道となったとするものだが、日本書紀の記述からすると考えにくいことになる。

では菟道の地名そのものの由来は何か。南方熊楠はこの地に兎が多く道をなしたから菟道となったと唱えたが、現在では、平地が山地に入り込む「うち」、あるいは何らかの勢力の本拠地としての「うち」が起源とされているようである。なお、伊勢神宮内宮にも宇治という地名があり宇治神社・宇治橋があるがその理由については現時点では筆者は情報を持ち合わせない。

経緯はともあれ、宇治=菟道の地の由緒正しい神社は、龍の代わりに菟を祀っている(写真1.5, 1.6, 1.7)---菟を、龍に比肩する圧倒的な力を秘めた存在とみなしているのだ。実際、宇治神社の手水の兎の耳(写真1.7)は縣神社の手水の龍の角(写真1.2)と同様の形をしているし、兎は飛ぶように走り一羽、二羽と数える。兎は小さいけれど龍のように空を舞わんと志す存在なのである。宇治=菟道は兎の地にして龍の地ということになる。

なお、菟道の文字は今もとどうという読みで地名と学校名に残る---菟道高校である。

参考文献URL:
写真1.5 拝殿のみかえり兎 写真1.6 兎の置物 写真1.7 兎の手水
5) 曹洞宗仏徳山興聖寺

紅葉の美しい「琴坂」で知られる曹洞宗仏徳山興聖寺(こうしょうじ)。1229年に宋から帰国した道元禅師が1233年に伏見深草の地に開創したのがおこり。日本最初の曹洞宗修行道場であった。江戸前期の1645年、これを淀城主の永井尚政が宇治の地に再興したのが現在の興聖寺である。

まっすぐな琴坂をのぞむふもとの門には「仏徳山龍門」とある(写真1.8)。また琴坂を登りきったところにある山門は龍宮造り様式であり「龍宮門」とも呼ばれる(宇治市指定有形文化財指定)(写真1.9)。

写真1.8(左) 仏徳山龍門から始まる琴坂 写真1.9(右) 仏徳山興聖寺の龍宮門

なお仏徳山(通称大吉山)の展望台および山頂は、仏徳山興聖寺のテリトリーである(写真1.10)---宇治上神社のテリトリーでない(写真1.11)---ことは付言しておきたい。


写真1.10 仏徳山展望台から山頂への階段に「これより興聖寺」の掲示

写真1.11 宇治上神社の塀の掲示「仏徳山は当社の境内地ではありません」
6) 笠取の清瀧宮

南行して宇治川上流にそそぐ笠取川水系。笠取川を挟む東笠取・西笠取にそれぞれ、清瀧権現を祀る清瀧宮が建っている。

ここで清瀧権現についてまとめてみる:

清瀧権現(せいりゅうごんげん または せいりょうごんげん)は、インド神話に登場する八大龍王の一、沙掲羅(しゃがら、サガーラ)の第三(第四とも)王女である善女(善如)龍王。害を加えない善龍であり、密教を守護していた中国・青龍寺に飛来して同寺の鎮守(守護神)「清龍」となった。後年、弘法大師空海が青龍寺を訪れて仏法を学び帰国する際(806年)、京都洛西の高雄山麓に勧請された。海を渡ったので龍の字に「さんずい」を加え「清瀧権現」と敬称するようになった。

清瀧権現は、複数の寺を巡った後900年(昌泰3年)ころに京都市伏見区所在の真言宗醍醐派総本山醍醐寺の山頂、醍醐水泉に降臨し留まった。以後同寺に伝えられる真言密教を守護する女神となった。

1097年(承徳元年)、勝覚が醍醐寺の山上(上醍醐)と山下(下醍醐)に分祀。それぞれに本殿と拝殿がおかれる。上醍醐の「清瀧宮拝殿」は醍醐水泉の正面に建ち国宝。下醍醐の「清瀧宮本殿」は国の重要文化財となっている。

なお京都市中の神泉苑は善女龍王が住まうとされ善女龍王を祀っている(善女龍王社)。

参考文献URL:

京都の北西の隅の高雄の青龍宮、中心の神泉苑、南東の隅の醍醐寺を地図で眺めると図1.2のように一直線に並んでいる。


図1.2 高雄清滝 - 神泉苑 - 醍醐寺 は一直線に並ぶ

この理由について筆者は次のような事実指摘・仮説提示をしたい。

事実は次の通りだ。陰陽道では北西方位を乾(いぬい)、また天門と呼ぶ。乾の名は、北西方位が八卦で乾(けん)、十二支で戌亥(いぬ・い)であることからきている。天門とは、もとは古代中国で信仰された天帝のすまう宮殿の門のことであるが、日本では魑魅魍魎が出入りする凶方位とされた。これを踏まえ794年の平安遷都の際には大内裏および平安京の天門の守護として方位の神である大将軍八神社が置かれている。北野天満宮、平野神社も同じ天門の方位にある。

仮説はこうだ。平安遷都の12年後の806年に空海が中国青龍寺から帰国し高雄山麓に清瀧権現を勧請したのは、清瀧権現を平安京の天門のさらなる守護に加えるためではなかったか。また善女龍王が最終的に醍醐寺にいたったのは、醍醐・笠取が都の南東、辰巳(たつみ)すなわち龍の方位に位置することから、その方位の守護にふさわしいとして迎え入れられたのではなかろうか。

付言しておくと、陰陽道では北東方位を鬼門と呼ぶが、これが凶方位という信仰が広まったのは平安以降である。その端緒は最澄であろう。最澄は785年より平安京の北東方位の比叡山で修行を行ない788年に一乗止観院をひらいたのち入唐。帰国した805年以後比叡山に天台宗の一大拠点を興してゆく。のちの延暦寺である。

ともあれ、こうしてインドの善女龍王がはるばる中国青龍寺、京都高雄をへて醍醐寺に到達したわけだが、では東西の笠取清瀧宮はなぜあの地にあるのだろうか。

その答は存外に平易である---醍醐寺領だ。かつて醍醐寺は山科・日野から笠取に及ぶ広大な醍醐山域を領地とし、その領内のほうぼうに清瀧権現を祀る社を配置した。図1.3をみれば、その配置は日野の清瀧権現堂に始まり醍醐寺・上醍醐寺・上醍醐寺奥の院、そしてそこから両笠取清瀧宮へ続いていることがわかる。


図1.3 Google Map "清瀧権現" を伏見区醍醐付近で検索した結果

インドの善龍、善女龍王はこうして笠取清瀧宮に到達した。 西笠取清瀧宮にはアクトパル宇治が隣接している(写真1.12)。


写真1.12 左手はアクトパル宇治敷地北端の合宿所、右手は西笠取清瀧宮の鳥居

1.4 龍から想起されるもの - 四神

ここまで、理由もなく心にわきおこった龍のイメージに導かれて調べていくうち、清瀧権現の存在に行き当たり、上醍醐寺奥の院の東に配置された笠取の東西の清瀧宮にたどり着いた。

さて、青龍、東とくれば否応なく想起されるのは、中国・韓国・日本に広がる東洋思想の四神(しじん)である。四神については「龍が活躍する陰陽五行思想と四神相応 - 龍と龍水【メルマガIDN編集後記 第365号170701】」にこうある:

『四神の信仰は古代中国で誕生し、日本へ伝えられた。四神の起源は古代中国の天文思想で、星座(二十八宿)をさらに四方七宿ごとにまとめ、まとめた形を龍・取・虎・亀の4つの霊獣の姿に見立てたものであり、四獣、四象とも言う。これに五行思想が絡むことで、「黄竜」(おうりゅう)、あるいは麒麟を加えたものが「五神」(ごじん)と呼ばれ、さらに属性という考えが付属されるようになった。』
『四神は方位のほか、四季では《春・夏・彰・冬》、一日では《朝・昼・暮・夜》、色としては《青・赤・白・黒》、があてられている。』

さらに、四神と色に関してはブログ「TANTANの雑学と哲学の小部屋2018年3月29日記事」が詳しい。その内容を引用すると:

『青竜・白虎・朱雀・玄武という天の四方の方角を司る四神のことを表す色として、青・白・赤・黒という四色の色彩が選ばれた理由としては、まず、古代中国の陰陽五行説の思想において、青・赤・黄・白・黒という五つの色彩がすべての色彩の根源にある五色の正色として位置づけられたうえで、そうした五色の正色のうちから皇帝の象徴でもある特権的な色である黄色が除外された青・白・赤・黒の四色のうちから、東西南北という四つの方位のそれぞれに対応する色が選ばれていったと考えられる』

同ブログの図版「青竜・白虎・朱雀・玄武と五行説における正色との関係」を筆者が写し季節と黄竜を追記して「五神と方位・色・季節」としたものを図1.4に示す。 五神の中に二頭の神龍があり。中央が黄龍、東方が青龍である。


図1.4 五神と方位・色・季節

四神(五神)の概念を持ち出すことは唐突に感じられるかもしれないが、少なくとも京都の地においてはなんら奇異な発想ではない。そもそも、この盆地が四神相応にして都を置くのにふさわしい場所と判断されたからこそ、この地に平安京が建設されたのである。曰く、北の玄武は高い山。東の青龍は清い流れ。南の朱雀は開けた湿地帯。西の白虎は大きな道---確かに地形と符合している。試みに京都タワーの展望台にのぼってみれば、東の方角には「東・青龍」という表示がある。それほどまでに、京都においては四神の概念は身近なものなのである。

1.5 龍の降り立つ地・宇治 (前)

ここまでをふりかえってみよう。1.1節において宇治川の流れは龍のようであること(第1の線)、そして1.2節において宇治が山地と平地の境界(第2の線)上に位置することを指摘した。宇治はこの2つの線の交わる特異点なのであって、宇治川が山地から平地に降り立ち両者を結ぶ特別な場所ということになる。また1.2節において「この2つの線の正確な交点はどこか。これ以外には特別なものはないか」という問いを立てた。これについて考える準備として、1.3節で宇治の地の神社仏閣について検討した。すると、宇治は兎の地にして龍の地であることを告げる宇治神社・宇治上神社、大きな石の鳥居が特徴的な縣神社、龍の気配のある興聖寺が確認された。さらに善女龍王の存在が浮かび上がり、京都の北西(いぬい、天門方位)の高尾清滝から南東(たつみの方位)の醍醐笠取にいたる線が明らかとなった上、宇治が都の辰巳という意味でもやはり龍の地なのだということが確認された。

以上の検討を踏まえ、本節では「山地と平地の正確な境界線」と「特別なもの」を考えていこう。 まず図1.1を再掲(宇治付近のみを拡大)する。


図1.1再掲 山地と平地の境界線、宇治付近拡大
解像度が低くわかりにくいが、山と地の境界線はまさに宇治神社付近を通っているように思われる。そこで改めて宇治神社付近の地図を用意し、山地・平地の境界線と、仏徳山、宇治上神社・宇治神社、朝霧橋、平等院、縣神社とを書き込んでみると、図1.5を得る。

図1.5 山地と平地の境界線、および仏徳山、宇治神社、朝霧橋、平等院、縣神社

やはり、というべきか。笠取、喜撰山からつらなる宇治川東岸の醍醐山地は、仏徳山の峰を最後に終わる。その山地と平地の境界線上に、まさに宇治神社の鳥居(写真1.4)が存在している。「恵みをもたらす宇治川が、高い山地から出でて衆生の住まう平地に降臨してくる特異点」は宇治神社だと、地形そのものが告げているのだ。

図1.5はさらにもう一つの重大な事実を物語っている。山地と平地の境界線がスポットライトをあてた宇治神社を含め、仏徳山山頂、宇治神社、朝霧橋、平等院、縣神社が一直線をなしているということである。図1.5にはこれを「第3の線」として示しておいた。これは何を意味しているのだろうか。1章の後半は、これについて筆者の仮説を導き出してゆく。

まず、宇治上神社・宇治神社と平等院を一体と考える信仰は古くから存在している(要出典)。2004年にはそれを裏付ける科学的証拠も提出された。年輪年代測定により宇治上神社本殿が1060年頃の建立とわかり、藤原頼通が自らの宗教観を形にするため、極楽浄土を表した平等院と神社を対で建立したのではないかとされたのだ(平等院の建立は1052年) (四国新聞社 2004年2月26日記事「宇治上神社は1060年/年輪から国内最古確認」)。

また、宇治川の両岸にある宇治神社、縣神社が平等院の鎮守社 --- 鬼門・裏鬼門の守り---であるという認識もまた、きわめて一般的なものであろう。

ただし両神社を結ぶ直線の方位は鬼門方位の北東-南西ではない---冬至の日没方位=夏至の日の出方位だ。実際、両神社を結ぶ直線の実体化とも言うべき朝霧橋の東端では、冬至の夕刻、橋の西端や平等院鳳凰堂に日が沈む黄金色の光をみることができる(写真1.13)。これは宇治神社、仏徳山山頂からも同じである(仏徳山腹に現在のような木々がなかった時期があることが知られている)。


写真1.13 朝霧橋東端から望む冬の日没 (2021年1月2日撮影)

逆に夏至の朝に朝霧橋の西端や平等院付近に立てば、仏徳山の方角の(山の向こう側の)地平線から日が昇り、仏徳山に後光が射すのを拝むことになる。実際に日が射すのは太陽が山並みの稜線まで昇ってきたときであって、その方位は仏徳山山頂よりやや南寄り---朝日山山頂付近であろう。

朝日山山頂には朝日山観音と菟道稚郎子皇子が祀られており、宇治の地をこの高みから見守っている(写真1.14)。その展望台からは平等院鳳凰堂がほぼ真正面から見える(写真1.15)。


写真1.14 朝日山山頂の菟道稚郎子皇子之墓そばのケルンには兎が見える

写真 1.15 朝日山山頂の展望台からは平等院鳳凰堂がほぼ真正面から見える

図1.5には、方位に関するもう一つの事実が「第4の線」として記してある。冬至の朝、宇治橋の西端に位置する縣神社の石の大鳥居(写真1.3)の前に立つならば---かつ、現在の建物が一切なかったとして---宇治神社の鳥居(写真1.4)の方位から太陽が昇るのがみえるのだ。逆に夏至の夕暮れ、宇治神社の鳥居にたてば、縣神社の大鳥居の方位に日が沈むことになる。

これらの気づきが偶然やこじつけでないことを、次の節で確かめておこう。

1.6 自然暦

前節では、仏徳山山頂 - 宇治神社 - 朝霧橋 - 平等院 - 縣神社のなす直線が夏至の日の出・冬至の日没方位(第3の線)にあること、さらに宇治神社の鳥居はまた、縣神社の鳥居と、冬至の日の出・夏至の日没方位(第4の線)にあることを述べた。

このような例は日本各地に存在し自然暦と呼ばれる。「方位を気にする氷川神社(アラハバキ神と高尾にある氷川神社を考える)」 (2013.02.04, 八王子在住)では、夏至・冬至、春分・秋分の日の出・日の入りを山に望む位置にしばしば祭祀の施設が置かれることを指摘している。とくにその 10章「縄文遺跡に見られる自然暦」では、

  1. 田端環状積石遺構 (東京都町田市小山町、縄文中後期) からは冬至の日に丹沢山塊の蛭ヶ岳山頂に日没を見る。
  2. 寺野東遺跡 (栃木県小山市、縄文時代中期前半から後半) では冬至の日の出前に筑波山から後光がさす。
を例示している。稲作到来以前、神道成立以前の縄文時代にすでに、太陽と山をあがめ季節の節目を祀った痕跡があることになる。

古墳時代はどうか。歴史地理学会サイトにある「山岳と冬至太陽出没方位と古代地域計画の理念」(山田安彦著) には、三輪山 - 狭井神社 - 磐座神社 - 大神神社 - 耳成山 が一直線に並んでいて夏至の日の出・冬至の日没の方位であること、また八尾の鏡作坐天照御魂神社からは、冬至の日に三輪山から日が昇り二上山に日が沈むのが見えることが述べられており、古代日本の農業のための暦であり太陽信仰でもあることが述べられている。この記述を元に筆者がおこした図を図1.6に示す。


図1.6 冬至・夏至に山から日が昇る・沈むのを望む神社の例(奈良)

平安時代には、こうした自然暦の思想は「浄土式庭園」の設計に受け継がれる。たとえば「日本庭園のひみつ 見かた・楽しみかたがわかる本 鑑賞のコツ超入門(宮元健次著)」の p.14 POINT 3 「浄土式庭園と太陽の運行を知る」では、浄土式庭園の典型として浄瑠璃寺が例示されている。春・秋分には三重塔の薬師如来坐像背後から太陽が昇り九体阿弥陀堂の背後に没すること、鎮守堂跡からは冬至の朝、本坊跡からは夏至の朝、三重塔から日が昇るのが見えることが指摘されている。

このように、縄文から平安におよぶ古代日本において、春分・秋分・夏至・冬至の日の出・日の入りの方位は、山岳・太陽信仰と農業の暦の両面でとりわけ重要なものとされ、祭祀の施設はしばしばそれを象徴する方位に設けられてきたのである。

1.7 宇治における自然暦

直前の1.6節で古代日本における自然暦について確認した。これに基づけば、宇治の地における「第3の線」---仏徳山を起点に宇治神社、縣神社が形づくる直線---が夏至日の出・冬至日没方位をなすのは、偶然やこじつけではなく自然暦の実例であろうと考えられる。第4の線も同様であろう。

1.3節 5)で述べた通り「縣神社は古くは大和政権における県(あがた)に関係する神社と見られている」。宇治神社、縣神社(の前身となる古代の祭祀の施設)は、おそらく大和政権の影響下で仏徳山という山地の終端の峰を信仰の対象とし、縄文より続く山岳・太陽信仰にのっとる形で夏至日の出方位に一直線に配置されたものであろう。時代が下って平安時代に、この直線の上に新たに平等院を建立したのである。

その平等院もまた、浄土式庭園の典型である。再び「日本庭園のひみつ 見かた・楽しみかたがわかる本 鑑賞のコツ超入門(宮元健次著)」p.14 POINT 3「浄土式庭園と太陽の運行を知る」によると:

『太陽の運行を考慮し、建物や池、堂内にある阿弥陀如来像や円鏡に至るまで意図的に配置されている平等院庭園』(写真キャプション)
『夏至の日の出が仏徳山から昇る際、鳳凰堂正面の扉を開くと、太陽光が正面の池に反射して堂内に入り、阿弥陀如来坐像の天蓋の円鏡に再び反射して暗闇の中に本尊をスポットライトのように浮かび上がらせることが明らかになりました。』
『一方、鳳凰堂天井には、この他六十六枚もの銅鏡が取り付けられており、本尊背後の壁面に架けられた雲中供養菩薩一体一体を照らし出すことがわかったのです。』
とあり、いかに当時の人々が夏至の日の出を重要なものと考えていたかがうかがえる。鳳凰堂・阿弥陀如来坐像が仏徳山山頂ではなく朝日山山頂を向いているのは、このためだったのだ---その方位には、下って江戸時代前期の1645年に曹洞宗仏徳山興聖寺が再興されている。さればこそ、現在の朝日山、平等院の山号、そのいずれもが「朝日山」とされたのであろう。

付言しておくと、この「第3の線」の上、平等院の至近距離に、井川揚水機場、そしてベンチが一つ、位置している。また試みにこの直線を西方に延長してみれば図1.7のように大久保地区の南宇治中学校付近を通ることがわかる。なお東方への延長線のほど近くには宇治市立三室戸小学校がある。


図1.7 仏徳山山頂-縣神社の直線を西に延長すると南宇治中学校付近を通る

なお平等院建立(1052年)の45年後の1097年に清瀧権現が醍醐寺・上醍醐寺・上醍醐寺奥の院に分祀されたことは1.3節6)で述べた。自然暦の観点でそれらの位置を見直してみると図1.8のようになる。


図1.8 自然暦の観点で見た醍醐寺から笠取にわたる清瀧権現の社の配置

これらは、一直線ではないがおおよそ冬至日の出・夏至日没方位をなしており、その延長上にある笠取山山頂からの冬至の日の出を祀ったのかもしれない。一方、奥の院清瀧大権現から西笠取清瀧宮・東笠取清瀧宮が真東に位置するのは、四神にいう東青龍の方位であるか、春分・秋分の日の出であるか定かではない。

なお、自然暦の概念を、見通し範囲を大幅に超える遠隔地の位置関係に拡張適用する論もあるが、筆者はこれには懐疑的であるのでそれについて述べておく。一例として、山田は1.6節で触れた論考において『二上山・三輪山を結ぶ東西軸の延長上が大体伊勢であり、ここに大和朝廷の神界があると想定し、皇祖神を祭祀したものと考えられる』と述べている。山田が指摘した大和・伊勢の位置関係(前節)を図1.9に示す(筆者が宇治を加えている)。


図1.9 大和・伊勢と宇治の位置関係

図1.9でわかるように、宇治は、大和の耳成山・鏡作坐天照御魂神社の真北に位置していると同時に、大和王権が皇祖神を置いたと山田が考える伊勢の地からは夏至日没(冬至日の出)方位に位置している。言い換えると、冬至の朝、宇治の地で拝む日の出は、伊勢神宮の方角から昇っていることになる。とくに縣神社の鳥居にたてば、宇治神社の鳥居から日が昇り、それは伊勢神宮からの日の出ということになる。また同じ日の朝、醍醐寺から笠取にわたる清瀧権現の一群の社から見る太陽は笠取山山頂から昇るが、それはさらにはるかかなたの伊勢神宮から昇っていることになる。

このことは事実ではあるが、単なる偶然であろうと現時点では筆者は考えている。なぜなら、古墳時代において直接見通せない遠い二地点の方位を正確に定める方法が存在したことが今のところ示せないからだ。正確な日本地図が江戸年間まで作られなかったこともその傍証である。

1.8 龍の降り立つ地・宇治 (後)

宇治の神社仏閣の位置関係の特異性について考えてきた。奇跡の特異点とでもよぶべき宇治神社の鳥居の一点が基準となって、自然暦にのっとった位置にさまざまな祭祀の施設が配置されていることがわかった。さらに一つ、問いを発しよう---なぜ、宇治神社と縣神社は、宇治川をはさんで両岸に置かれたのだろうか。

筆者は一つの仮説を提示したい。山から流れ下る宇治川を、神の住まう山からこの宇治の地に降り立つ聖なる龍に見立ててあがめる信仰が古代から存在しているのではないか。まさに山地と平地の境界にして龍の降臨地点であるこの場所に、あたかも狛犬のごとくに両神社(に発展する礎となる何かの祭祀の施設)を配置したのではないだろうか。

この仮説によると、ほかならぬ宇治橋が、この壮大な祭祀の舞台の特等席だということになる。宇治橋の中央に立って宇治川の川上をみやるとき、人は、左に宇治上神社・宇治神社、右に縣神社を目にする(写真1.16)。両者は宇治川を横切る結界を張っている。そこから向こうは善女龍王の住まう聖なる山々であり、聖なる龍が、そこから結界を超えて衆生の住まう平地へと今まさに轟音とともに降臨している。それを両神社、そして平等院が両岸から見守っている。その瞬間を目の当たりにしている、ということになるのだ。


写真1.16 宇治橋の中央から望む宇治川の川上
この仮説を「宇治信仰仮説」と呼ぶことにしよう。

1.9 龍の気配 - 宇治信仰仮説

前節で提示した宇治信仰仮説は、これまでに見てきた事実に照らして矛盾なく成立しうるものなのだろうか。年代を追ってみることでその可否を吟味してみよう。

1) 上古〜弥生時代

現在の京都の南側に広がる山城地域。古代の人々にとって、宇治川の豊かな流れが山々から現れ(第1の線)、山地と平地の境界(第2の線)を越えて平地に降り立ち、稲作や生活に必要な恵みの水をもたらす様は、きわめて神聖なものと感じられたことだろう。

自然信仰の時代のこと、この聖なる降臨に対する畏敬の対象として、山地の終わる西端の峰、現在の仏徳山が選ばれた。その祭祀の施設は、仏徳山を起点とする自然暦を構成するように設けられた。夏至---太陽がもっとも北寄りから上り南天高くに昇りつめる夏の日---の明け方、仏徳山に後光がさして見える方位が見出される(第3の線)。この第3の線が、第1,第2の線が示すおおよその交点を正確なものにする---その奇跡の特異点は、現在の宇治神社の鳥居である(写真1.4)。

第3の線の宇治川西岸への延長上に、自然暦をなす祭祀の施設がもう一つ置かれる。おそらくは、善龍のごとくに恵みをもたらす聖なる宇治川の降臨を、あたかも後世の狛犬のように両岸から祀るためだっただろう。さらに、縣神社の石の大鳥居(写真1.3)の位置にも何らかの施設が置かれたことも想像に難くない。なぜならこの地点こそ、冬至の朝、奇跡の特異点・宇治神社の鳥居の方角に太陽が昇る、第4の線上であるからだ。

改めて1.5節の図1.5をみながら整理しよう。現代のような参道沿いの建物は一切ないとする。特異点である宇治神社の鳥居を宇治川の対岸から望み、その背後に日の出の光がさすのを拝める地点を現在の縣神社の参道上に選ぶと、一年の初めの冬至が縣神社の石の大鳥居。一年の折り返しの夏至が縣神社境内であり、一年かけて両地点間を一往復することになる。しかも夏至の日の出は仏徳山の山頂から昇るのだ。縣まつり(6月5日)は、大鳥居からはじまった日の出遥拝の歩みがついに縣神社境内に到着間近となったことを祝う祭りであったのだろう。まさに暦というべき見事な舞台装置と言う他はない。

さればこそ、仏徳山全体を、一年を通して日の出のある山、すなわち「朝日山」と呼ぶのだ。

2) 古墳時代

時は4世紀ないし5世紀前半。宇治川の両岸におかれた二つの祭祀の施設は、それぞれに神社としての成立発展をみたと思われる。

東岸にはすでに「莵道」の名があった。東岸の「奇跡の特異点」の付近には、応神天皇の子、莵道稚郎子(うじのわきのいらつこ)皇子が莵道宮(うじのみや)、別名桐原日桁宮(きりはらのひげたのみや)を構えたとされる(山城国風土記)。きりはらの名は、現在も宇治上神社に湧く桐原水(きりはらみず)に残る。天皇直系の高貴な身分のこと---「播磨国風土記」には「宇治天皇」という表現もみえる---、おそらくその勢力は顕著なものであって祭祀の施設も十二分に整備されたことであろう。

莵道稚郎子皇子は、応神天皇の崩御ののち異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)と帝位を定める中で夭逝する。身を引くため命を絶ったとも伝えられる。そうして兄の大鷦鷯尊が仁徳天皇となった。1890年宮内省により墓所が造成された(2021年8月21日にオープンした、お茶と宇治のまち歴史公園「茶づな」の至近)。一方江戸時代末期に朝日山山頂にも墓碑が建てられたが、おそらく象徴的なものであろう。

西岸はどうであったか。古墳時代、大和王権のもとで畿内外各所に県(あがた)が置かれた。現在の大久保を中心に宇治市神明・広野に及ぶ地域にあったのが栗隈県(くりくまあがた)である。くりくまの名は、現在宇治市文化センターや山城総合運動公園(太陽が丘)がある丘陵の通称・栗隈山(栗駒山)、そのふもとの神明神社の別名・栗隈(栗子)神明に残る(平凡社百科事典マイペディア「栗隈」の解説: https://kotobank.jp/word/%E6%A0%97%E9%9A%88-831377)。おそらくは、大和王権の関与のもと、栗隈県主が、宇治川西岸にすでに長らく存在していた自然暦の祭祀の施設を県の守護の社として整備し、それが、現代まで続く「縣神社」となったのであろう。実際、縣神社境内の、宇治市による説明には次のようにある(抜粋):

「当社は、天孫天津彦彦火瓊瓊杵尊アマツヒコヒコホノニニギノミコトの妃木花開耶姫命 さくやこのはなひめ を奉祀する。「あがた」の名は、上古の「県(あがた)」の守護神であったことを示し、神代以来当地の地主神であった。後冷泉天皇 永承7年(1052)時の関白藤原頼通の平等院建立にあたり同院総鎮守となり、藤原氏の繁栄を祈請したのである」

当時、宇治川東岸が莵道、西岸が栗隈と分かれていたならば、なぜ、栗隈県の守護の神社として、中心の大久保でなく北東端、しかも対岸の莵道のものと一対をなしている祭祀の施設が選ばれたのだろうか。鬼門の守りではありえない。鬼門を凶方位とする思想は平安以降のものだからだ。筆者は空想をたくましくする---仁徳天皇は、異母弟・莵道稚郎子皇子の没後、弟の生きた地をしばしば訪れて影響力を維持したのではないか。仁徳天皇の時代、栗隈県に命じて大規模な灌漑水路・栗隈大溝(くりくまおおうなで)を作らせた事実がある。同様に栗隈県に命じて、弟が遺した東岸の宇治上神社・宇治神社と一対の自然暦をなす西岸の祭祀の施設を「これこそが、栗隈県の守護神を祀る場である」とし、宇治神社にひけをとらぬものに整備させたのではないか---。

ともあれ、古代からの自然信仰---仏徳山を自然暦の形で祭祀し、かつ山から流れ出でて平地に恵みをもたらす宇治川を両岸より見守り祀る二つの施設は、こうして古墳時代に大和王権の関与によって別々に初期の神道の施設として整備された。それが現在の宇治神社・宇治上神社と縣神社となったのである。その契機は、莵道稚郎子と仁徳天皇であったのかもしれない。

3) 古墳時代後期・飛鳥時代

仁徳天皇の時代を含む4世紀から6世紀は、大陸からの渡来人がさまざまな文化・思想・宗教を日本にもたらした時期である。龍・四神も、仏教・陰陽五行説・十二支もそうである。

さてここで、伊勢神宮の位置についてもう少し検討してみよう。「宇治において冬至の日の出の方角が伊勢神宮」という事実については、1.7節後半で「現時点では偶然であろうと想定」という見解を表明した。これに対して「このような可能性がないか」という根拠なき筆者の空想を開陳しておく。

大和王権のもとで伊勢神宮が造営された年代については諸説あるが、祭祀や文物などからして5世紀後半から6世紀末という説が有力である。莵道稚郎子・仁徳天皇のできごとの少し後である。また伊勢神宮の場所に関して、奈良盆地の東方を求めたと考えるのが自然ではあろう。それにしてはずいぶんなずれであるが。。。

ここで筆者は空想する---仁徳天皇は、大和政権の中心の真北に位置する宇治の奇跡の特異点、宇治神社の鳥居を基準とする壮大な舞台装置に、最後の一要素を付け加えて完璧なものにしようと考え、実行したのだと。その最後の一つとは、冬至の日の出方位の神聖化である。夏至の日の出が至近の仏徳山山頂からなのだから、冬至の日の出は、これ以上ないほど遠方に、畏敬すべきこの上なく神聖なランドマークを設け、そこから昇る太陽を遥拝する形を実現しようと。そうすれば、年の初めに遥か彼方にあった太陽が、年の折り返しの夏至の日に至近距離の仏徳山山頂に到達し、また年の終わりまでかけて遥か彼方に帰っていくことになると。その具現化として仁徳天皇が設けたのが、伊勢神宮なのだ---。

まず、この時代に、宇治から冬至の日の出の方角に位置する遠隔の土地を見出す方法はあったか。王権の圧倒的な力をもってすれば、「毎年冬至の日に、山の稜線上の観測点から東南東の山の稜線に数十の旗を並べるなどして日の出の新たな観測点を定めるということを繰り返していく」といった方法で、数十年かけて宇治から今の伊勢に到達できたかもしれない。同様のことを春分秋分に奈良盆地から東に行なって伊勢を定めることもできたはずだが、それが行われていないことは、奈良盆地と伊勢神宮の緯度のずれが示している。

また、当時の中国にはすでに遠隔地の方位と緯度のずれを測量し地図を描く技術があった。後漢(AD25-220)に成立した「周碑算経」である(古代中国における地の測り方と邪馬台国の位置、野上道男、東京地学協会伊能忠敬記念講演会、2015年11月28日)。もし、これに習熟した渡来人が測量を指揮したならば、宇治から所望の方位に伊勢神宮を定めることができた可能性はある。630年代にはさらに精度の高い方法が大陸からもたらされたことが最近明らかになっており(竹迫、「古代の正方位測量法(第二版)-正方位の年代学-」)、もし伊勢神宮の成立が7世紀後半ならばあるいは---という想像も膨らむ。

伊勢神宮は、奈良盆地の真東からはずいぶんずれている。一方宇治からの冬至日の出方位の精度はきわめて高い。さらに、伊勢神宮内宮には宇治の名があり、宇治神社・宇治橋があるという。これらの説明として「実は、仁徳天皇が、大和の真北にあってかつ異母弟の莵道稚郎子皇子が過ごした地である宇治を、長く記銘すべき地とみなし、大規模な測量を行って伊勢神宮を設けた」と空想してみることも娯楽としては許容されるだろう---宇治の地に宇治神社・宇治上神社を整え、また栗隈県に縣神社を整備し栗隈大溝を作らせたであろう仁徳天皇が、さらに伊勢神宮を設けたのだと。

宇治橋はどうか。7世紀の646年に建設されたと日本書紀にある。その位置は、当然に縣神社の石の鳥居に接するように選ばれた。これにより、「古代からの自然信仰---仏徳山を自然暦の形で祭祀し、かつ山から流れ出でて平地に恵みをもたらす宇治川を両岸より見守り祀る二つの施設」を一望する観覧席が生まれたのだ。この頃には龍の観念も大陸より伝わって久しい。漠然とした「恵みをもたらす宇治川」という畏敬は、「聖なる山地に住まう聖なる龍である宇治川が、衆生の住まう平地に降臨し、恵みの水をもたらす」という見立てに発展していた可能性もあるだろう。

4)平安時代

794年、平安遷都。京都盆地が四神相応の地として都に選ばれたことが、四神、陰陽五行説、十二支、といった大陸の思想の定着ぶりを物語っている。 1.3節6)で、御所の天門(乾=戌亥、いぬい、北西) の守りとして大将軍八神社、北野天満宮、平野神社が置かれたこと、12年後の806年に中国から帰国した空海が高雄山麓に勧請した青龍権現もおそらくその一つであろうことを述べた。インド神話に登場する八大龍王の一、沙掲羅(しゃがら、サガーラ)の第三(第四とも)王女である善女(善如)龍王の到来である。

天門の強い意識は、宇治は都の巽=辰巳、たつみ、南東)すなわち龍の地であるという認識も呼び起こしたことだろう。そのことが、900年ころに善女龍王が宇治の北方、醍醐寺に降臨したことにつながる。

1052年、藤原頼通が平等院を建立。鳳凰堂は当然に自然暦を前提とし、上古より存在している「第3の線」---仏徳山山頂、宇治神社、縣神社を結ぶ夏至日の出方位の直線---の線上に建立された。それにとどまらない。夏至の日、対岸の朝日山山頂付近から顔を出す日の光が池と鳳凰堂内部の鏡に反射して阿弥陀如来・雲中供養菩薩像にスポットライトを当てると伝えられるなど、当時の技術の粋を集めた浄土式庭園となっている。山号朝日山もうなづけるところである。縣神社は平等院の総鎮守社となった。

つづく1060年ごろ、宇治上神社の整備。一体としての信仰であろう。また宇治神社が鬼門の、縣神社が裏鬼門の守り、とされたのが興味深い。自然暦が十二分に知られていたにも関わらず、同時に鬼門の考え方も取り入れられたのだ。

1097年、平等院建立から45年後、醍醐寺の清瀧権現が醍醐寺・上醍醐寺・上醍醐寺奥の院に分祀された。いずれも、冬至に笠取山山頂からの日の出を拝む位置に並ぶ。笠取山の遥か彼方には伊勢神宮が位置している。さらに奥の院の真東---東の青龍の方位---に、善女龍王の住まう東西の笠取清瀧宮が置かれた。うち西笠取清瀧宮の祭神は天孫天津彦彦火瓊瓊杵尊アマツヒコヒコホノニニギノミコトである。その妃、木花開耶姫命サクヤコノハナヒメを古くから祭神として奉祀するのが、縣神社である。

ここでも筆者の妄想を披露しておこう---平等院建立の際、宇治神社・縣神社の方位は夏至日の出方位であって鬼門方位ではないことは自明であったが、上古から存在する尊い社であるから、便宜上「鬼門の守り」と称した。しかし時間がたつにつれ、真正な鬼門の守りが必要だという意見が強まり、奇跡の特異点宇治神社鳥居および平等院鳳凰堂から正確に鬼門(北東、艮=丑寅、うしとら)の方角にある笠取山に、畏敬に値する社を置くこととした。そこで、すでに龍の地・宇治にふさわしいとして醍醐寺にいた善女龍王を祀ることとし、醍醐寺に命じて清瀧権現を分祀させ奥の院と東西笠取清瀧宮を創設。西笠取清瀧宮の祭神としては、当然、縣神社の妃サクヤコノハナヒメを守るニニギノミコトを当てたのである---。

妄想はさておき、祭神の観点で、笠取と宇治は深くつながっており、宇治は、その北東、宇治川上流の笠取の山地に善女龍王をいただきその守護を受ける、まぎれもない龍の地となったのである。

5)江戸時代

江戸前期、1645年に曹洞宗仏徳山興聖寺が現在の地に再興される。1229年に宋から帰国した道元禅師が1233年に伏見深草の地に開創するも延暦寺の弾圧を受け50年ほどで荒廃していた(1.3節5) )。その位置は、平等院鳳凰堂が、朝日山山頂からの夏至の日の出をみるその方位である。江戸前期においてもやはり自然暦はよく知られていたことがわかる。

6)明治以降現代

明治時代以降、宇治川に浮かぶ塔の島の整備が進められる。明治末に、宝暦6年(1756)の洪水で河に埋もれていた十三重塔が発見されたのがきっかけであったという。昭和時代の1972年、奇跡の特異点である宇治神社の鳥居から橘島にわたる朝霧橋が建設された。ここに、現代の宇治神社周辺の形が完成を見る。

筆者の妄想を申し据えるならば、現代にいたっても自然暦、そして宇治川両岸の神社が相対して聖なる宇治川の山からの降臨を迎え祀るという「宇治信仰仮説」は連綿と認識されているといえるだろう。実際、朝霧橋は第3の線---夏至日の出方位---に忠実に一致する線上に建設され、しかも、両神社の張る結界を具現化するかのように朱色に塗られ、あたかも鳥居のように宇治川を祀っているのだ。そればかりではない。「あさぎり」の名はどうか。むろん、権中納言定頼が宇治川の美しい朝の霧を詠んだ「朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々の網代木」の「朝」「霧」と考えるのが一般的ではあろう。だが---もう一つ筆者の脳裏によぎるものがある。宇治稚郎子皇子の「朝日山」と「桐原」の「朝」「桐」だ。命名の際にこちらも考慮されたのだとすれば、ただただ感服あるのみである。

ことのほか長大とはなったが、この地の上古から現代までの変遷を振り返った。「自然暦」を土台とする「宇治信仰仮説」は、筆者の荒唐無稽な空想である。だが地理的事実や歴史的事実に照らして、絶望的に矛盾しているわけでもない、娯楽として許される架空の物語とはいえるのではないか。

あらためてここに、宇治信仰仮説をまとめておこう。

平安京の巽、龍の方位に位置する宇治は、龍の地である。いにしえの人々は、山地と平地の境界と、宇治川との交点を定め、自然暦を成す祭祀の装置を整えた。その交点とは宇治神社の鳥居である。その背後の日の出を拝む地点は、冬至に縣神社の大鳥居から始まり、夏至に縣神社境内に到達する。冬至にはかなたに伊勢神宮、夏至には至近に仏徳山山頂を望む。

宇治神社と縣神社は、必然的に、東岸の山並みの終端の峰である仏徳山から夏至の日が昇るのを見る方位をなし、狛犬のように宇治川を挟んで相対し結界を張る。その結界は現代にいたって朱色の鳥居のように朝霧橋として具現化された。

聖なる龍たる宇治川は、この結界を超え、宇治の鬼門の守りたる善女龍王が住まう笠取の山地---神々のおわす天界といってもよい---から衆生の住まう平地へと、轟音とともに降臨している。また宇治神社・宇治上神社に祀られる兎は、宇治=菟道そのものの、そして菟道稚郎子皇子の象徴であり、いつかは鳥のごとく羽ばたき龍のごとく舞わんとする存在である。

1.10 エピローグ 「響け!ユーフォニアム」と宇治

小説「響け!ユーフォニアム」の舞台、宇治。

「朝霧橋と近隣の山と神社は山地すなわち天界から平地すなわち人界へ龍が舞い降りる舞台装置である。宇治はそのように作り上げられた特別な場所である。」という宇治信仰仮説をかかげた。このような言い伝えが実際に昔からこの地に存在し、それが「響け!ユーフォニアム」の基層に横たわっている可能性はないだろうか。

原作の時点ではどうか。「響け!ユーフォニアム」の原作者である武田綾乃先生は宇治のご出身である。舞台という見方が郷土の伝承として地元の小中学校で教えられているとしたら、武田先生もこの見方をご存じだった可能性がある。先生は「響け!ユーフォニアム」の執筆の動機として「変わりゆく風景をとどめたい」とおっしゃっているが(要出典)、それは店舗の移ろいや護岸の外観といった表層的なものだけでなく、古代の人々が宇宙観をもって作り上げた宇治という舞台の特異性の未来への継承を念頭に置かれてのことかもしれない。とすれば伝承の内容は必然的に物語の基本設定に生かされているはずである。

アニメーションはどうか。「響け!ユーフォニアム」は京都アニメーションの30周年記念として、地元宇治が舞台という理由で選ばれた作品である。京都アニメーションは徹底した考証をストーリーや映像に緻密に反映させるスタジオである。まして地元宇治が舞台となれば、宇治にまつわる古代信仰や地形・神社の配置の意味を徹底的に調べ尽くし、単に風景の忠実な再現に留まらず、アニメーションのストーリ構成のような根本的なレベルで反映させた可能性がある。

1章の帰結である宇治信仰仮説は、果たして「響け!ユーフォニアム」に影響しているのだろうか。これについて2章以降で検討していく---ただし、「妄想爆発」モードで!

2021年12月19日追記:「そのような古代信仰に関してはきいたことはない」というのが、宇治市歴史資料館のコメントであった(2021年12月11日、宇治市文化センターで開催された「第3回ようこそフェスティバル」におもむいた際、隣接する歴史資料館を訪れて相談)。「歴史資料には、地元の信仰・伝承は詳しくは記載されていない。また、宇治川がどうかという伝承の調査だけでは普遍性を欠く。古代日本の各所で共通してそのような信仰がみられるか、という見方が重要である。それを行うのは、民俗学や文化人類学である。」というコメントをいただいた。

大変にありがたかったが、ずぶの素人の私には、今から民俗学や文化人類学を学び全国のフィールドワークをしてまわるということは現実的ではない。「山から平地に流れ出る川を龍とみたて、両岸に神社をおいて橋を架けて祀る」信仰というものは、今のところ「現実にはない」としよう。そのうえで、「もしもあったとしたら」という妄想を爆発させていくことにする!